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あなたがそう思うのなら もうそれでいいです

 先日、安倍首相が盛大なギャグを飛ばしてみせた。
 曰く、「7割の憲法学者が、自衛隊に憲法違反の疑いを持っている状況をなくすべきではないかという考え方もある」とのことから、憲法9条第2項を変えて自衛隊を合憲の存在として明記したいとの考えを述べたらしい。
 もちろん、これはギャグである。あるいは一世一代の大ボケである。
 いや、普通ならばボケにはならないのだが、安倍首相その人が言うことによって、ボケとして完成されるのだ。
 安倍の発言のどこがボケなんだなどと、いまさら説明する必要もないと思うが、あえてツッコミを入れておくと、
 「9割の憲法学者が“違憲あるいは違憲の疑いがある”としていた米国戦争協力参加法案(政権による俗称は“安保関連法案”)を学者の声を完全に無視して“可決”しておいて、いまさら学者の意見をダシに使うのかよ!」

 一国の総理大臣を務める者が、まさか自分の過去の見解を完全に忘れるなどということはそうそうないだろう。
 先週の金曜日の夕飯の内容を覚えていないだとかいうことなら、あってもおかしくはないだろうが、自分が政治家としての言動の基本としているところをコロッと忘れて、180度正反対のことをやってみせるなんてことは、いくらなんでもありえない。
 もしそんな人物が首相に収まっているなどと知れたら、それこそ世界中からの信用問題にかかわってしまう。
 まあそういうわけで、今回の安倍の発言は、自分の過去の言動を踏まえたうえでの、正真正銘のギャグであり大ボケである。
 本人も本当なら、世界中の人にハリセンを渡して頭を差し出して「さあ、ひっぱたいて(ツッコんで)くれ!」と言いたいところだろう。
 もしくは発言の直後に、世界中の人々がいっせいに、そして盛大にコケてくれることを望んでいたのだろう。
 ただ、このギャグもしくは大ボケには問題があった。
 面白いんだが、ギャグとして済ましておいていいものではなかったのである。
 やはりギャグというのも、時と場所、自分の立場というものを考えなければならないのだ。

 かつて、たけし軍団の誰かの身内に不幸があった際に、葬儀に参列した団員たちが、棺にサツマイモを入れて焼き芋を作ろうとしたというエピソードがある。
 芸人同士だからこそ許されると思っていたのかもしれないが、さすがに一般の会葬者もいたことから止められたということだ。
 今回の安倍のギャグも、どこかの漫才師が安倍に扮して披露したのなら十分に面白く、ギャグとして成立するのだが(実際、ザ・ニュースペーパーあたりがやってくれそうな内容だ)、いかんせん、国会での質問に対する答弁であるだとか、安倍が総理大臣であるだとか、時と場所、立場が悪かったようだ。
 安倍首相でなければギャグにならないのに、安倍首相だからギャグにならない。これは痛恨の矛盾だった。
 というわけで、残念ながら安倍一世一代の大ボケは、それこそ大スベリして終わってしまった模様だ。

 え、ボケじゃなくて本気で言ってるって!?
 それなら一刻も早く病院へ連れてってあげないと!





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# by tima-formosa | 2016-02-07 23:48
 毎朝の通勤のたびに、いつも不思議に思うことがある。
 近所の団地の最寄りバス停、その先のいくつもの市街地方面へのバス停、それらを自転車で通過するたびに、そこでバスを待つ人々のほとんど90%以上が、スマートフォンを操作しているのである。
 スーツを着た会社員、制服姿の高校生、40代かと思われる婦人等々、さまざまな世代や性別の人々がみな一様に、一心不乱といった様相を呈してスマートフォンに見入ってまったく同じ姿勢をとっているというのは、ある種の異様さを感じざるをえない。北朝鮮のマスゲームに感じるものに共通するところがあるようにさえ思える。
 またあるいは、前方の高校生の自転車が、やけにゆらゆらと左右に揺れながら不安定な走行をしていることがある。
 追い抜きざまに見てみると、高校生は左手で持ったスマートフォンの画面を眺め、時に右手で操作しながら運転(当然だが手放し運転。しかも前を見ていない)しているのであった。
 私も車の運転をしていて信号で停まったときなどに本を読むことがあったりするが、さすがに走行中に読むということはしない。当たり前の話だが、前が見えないからである。
 いくら自転車とはいえ、道路交通法の上では「車両」の一種であり、自動車の仲間ともいえる。
 その走行の最中にまでスマートフォンを見るとなると、これはもはや中毒である。
 いったいスマートフォンの何が、彼らをそこまで夢中にさせてやまないのであろうか?

 こんなことを考えてしまうのは、私もひと月ほど前に、スマートフォンを導入したからである。
 それまでの電話が物理的に破損したことや、音楽家の知り合いにリアルタイムでライブ写真を送信する必要などを考えて、ほとんど仕方なくといった感じでの導入だったのだが、これが非常に面倒くさいシロモノなのである。
 たった一文字の入力をするだけでも、指先の力加減に細心の注意を払わないと思わぬ文字が入力されてしまったりで、大変なストレスである。
 もともとほとんどメールや電話をしないこともあり(する相手がいない)、携帯電話と向き合う時間そのものが少なかったのだが、スマートフォンに変えてからというもの、そのあまりの面倒くささから、さらに電話離れが進んでしまったのである。
 そういった自分の事情とは正反対に、世間の人々はちょっとした時間があれば、すぐにスマートフォンの画面に見入っているようであり、私から見れば「あの人たちはあれほどまでにスマートフォンに集中して、いったい何をしているのだろう?」と不思議で仕方ないのだ。

 私はべつにスマートフォンに四六時中見入っていること自体に批判的な感情を持っているわけではない。
 人それぞれにそれなりの事情や必要があって使っている結果が、通勤のときに見る「一億総スマホ」の光景なのだろう。他人のプライベートな事情に足を踏み入れないのは、基本的人権の尊重の基本である。
 私が疑問に思うのは、あくまでも彼らが「それほどまでに」スマートフォンの使用を必要とする理由の方なのである。
 自転車の高校生の例を挙げたが、彼の場合、ある意味では命の危険を冒してまでスマートフォンを使用しているのだ。
 雪山や樹海での遭難でもない、街中の日常的なシチュエーションで、命懸けでスマートフォンを使わなければならない、その理由はいったいなんだ!?私は知りたい。

 もうひとつ知りたいことがある。
 スマートフォンのことを略すと、なぜか「スマホ」になる。
 本来は「スマフォ」だと思うのだが、みんなはどう思っているのだろうか?
 私は変だと思うからなるべく略さないで「スマートフォン」と言うか、いっそ「電話」と言ってしまうのだが。




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# by tima-formosa | 2016-01-23 15:32
 タイトルに惹かれて『超高速!参勤交代』の文庫本を読んでみたのだが、なんとも後味の悪い本だった。
 最初から最後までバカバカしくて荒唐無稽であれば、エンターテインメントとしてこういうのもアリかな、と思えたのだろうが、なまじ基本的な設定や時代考証などが比較的しっかりしていて、主人公の湯長谷藩主が心優しく領民想い、弱者想いの人物として具体的に細かく描かれているために、最後のあたりの展開に首を傾げざるをえないのである。

 さまざまな障害を乗り越え、なんとか刻限内に江戸までたどり着いた主人公の政醇だが、江戸城の入口で敵の差し向けた軍勢に取り囲まれてしまう。
 そこで、敵と大立ち回りが繰り広げられることになるのだが、心優しいはずの政醇をはじめ、家臣たちまでもが、なんのためらいもなく敵の手足や首を刎ね飛ばしまくり、大槍で敵を串刺しにしまくるのである。
 やらなければ自分たちがやられてしまう、というのは理解できるが、それにしても凄まじいほどの大量虐殺なのである。
 しかも戦いを続け、敵を殺めていくうちに、気分が高揚して楽しくなってきたと家臣が述べる描写まであるのには、空恐ろしさを覚える。
 弱いものを守るため(という名目)、自分の愛する人たちを守るため(という名目)なら、自分たちと敵対する者を殺しまくってもOK!罪悪感などまるでナシ!なのである。
 これでは百田尚樹の『永遠の0』とさして変わらないではないか。

 本とテレビ番組を比較するのは筋違いかもしれないが、同じ時代劇である『暴れん坊将軍』は、ツッコミどころ満載のストーリーやコミカルな演出もあって、非常に優れたエンターテインメントだと私は評価しているのだが、それは大立ち回りでも基本的には峰打ちであって、無駄な殺生はしていないというところも大きく貢献しているように思う。
 対して『超高速!参勤交代』は、後半にいたるまでの牧歌的な描写や、家臣の相馬の機転などのコミカルな描写が、クライマックスで描かれる大量虐殺シーンを違和感を持って浮き立たせる結果となってしまってはいないだろうか。
 映画の脚本となることを前提とした筋書きであることから、ある程度の大掛かりな「見せ場」が必要なことは理解できるが、物語全体での整合性を図ったうえで、もうすこし違ったかたちにできなかったのか?
 いま世の中は、対テロの名目で、力による他者の捻じ伏せを当然視する風潮が強いが、この『超高速!参勤交代』も、そういった風潮を煽る一助にならなければよいが……





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# by tima-formosa | 2015-12-28 20:24
 先週の土曜日、paris matchのライブ鑑賞のために上京した。
 今年で3年連続となったが、去年までの中央区銀座から、今年は会場が目黒区の恵比寿ガーデンホールに変わった。
 ホールは恵比寿ガーデンと呼ばれるところにあり、クリスマス間近とあって、一帯にはきらびやかに電飾が施されている。
 銀座だ恵比寿だと、paris matchのライブは小洒落たところばかりで開催される。そのうえクリスマスは私の人生にはなんの関係もないイベントであり、私のようなしょぼい中年のおっさんにして田舎者のおのぼりさんなど、この場には場違い以外の何物でもないのだが、私以外の多くの人々は、電飾や周辺に漂うムードとやらを楽しんでいる様子だ。
 世相は確実に昭和20年以前のような方向に向かって大逆走を続けているさなかだが、それでもこうして表面上は平和に見える。
 安倍首相をはじめとする極右たちの思惑どおり、日本が米国などの戦争に協力して、挙句に報復を受けて、見た目の平和さえも失われてしまわないことを願うばかりである。

 ライブが始まってしばらくしてから、私は携帯電話のメモ機能を使って、セットリストを記録しはじめた。
 もちろん携帯電話は開演前のアナウンスにしたがってマナーモードにしてある。
 液晶画面のバックライトで周囲の観客に迷惑が及ばないように、画面は手で隠しながらブラインドタッチで、しかも使っている時間が極力短くなるように、自分だけにわかる略語で手短に入力していた。
 1曲の間で入力にかかる時間は長くても20~30秒程度。そうして4曲目の入力をしていたときのことである。
 右隣の観客が肘で私を小突きながら「外でやりなさいよ」と言ってきたのである。
 詳細な検証は後述するが、私の行為のどこかに違法性やルール違反があっただろうか?
 仮に違法性があるならば、即座にやめなければならないことである。
 また、違法性がなくても、これ以上お互いに嫌な思いをしないためにも、諍いの元となる行動は慎んだほうがいいのかもしれない。
 というわけで、私は後者の理由により、セットリストの記録をとりやめた。
 安倍首相をはじめとする極右たちを反面教師として、自分で妥協できる範囲であれば、周囲の人や国と無駄に波風を立てるようなことは避けるのが賢明な生き方である。

 さて、私の行為についての違法性の検証である。
 まず、私がしていたのは携帯電話のメモ機能を使ってのセットリストの記録。
 たとえば「Passion8 Groove」であれば「8」といった感じに略語で入力する。
 もしこれが音声入力で「はち」と言って録音していたとしたら、それがたとえ自分の言葉であっても、録音行為自体が会場の禁止事項にあたり、ルール違反であるから隣席の注意は妥当である。
 ところが、事前アナウンスでは「携帯電話は、あらかじめマナーモードにするか電源をお切りいただくよう、ご協力を(以下略)」とのことで、そのどちらかの選択ということは、音が出てしまうことこそが問題なのであって、使用そのものは禁止事項とはされていないと解釈してよいだろう。
 つまり、通話は音声によって物理的にライブ興業を阻害するのでNGだが、メモ機能の使用では音声の問題は関係せず、ルール違反ではない。
 もしメモ機能の使用までNGなのだとしたら、紙と筆記具を使用したメモも、単なる使用器具の違いなのだからNGとしなければ整合性を欠くことになり、それは通常考えられることではない。それすらNGなのだとしたら、音楽誌のライブリポートなど成り立たないだろう。
 というわけで、理詰めで検証していけば私の行為に違法性はなく、ルール違反でもない。
 もちろん私は事前にそこまで考えたうえでセットリストの記録をしていたのだが、現実には私は隣席から小突かれたうえで注意されてしまった。これをどのように解釈すべきであろうか?
 単純に「マナーの問題」と考えてしまうと、これは問題が非常に拡散し、かつ曖昧になってしまう。
 マナーというのは、ある意味ローカルルールに近いところがあり、人や地域、さらには立場によって捉え方や適用に差異が生じるからだ。

 かつて、東京の港区元麻布にあるアバンティというイタリアンレストランのウェイティングバーに、スタン・マーロウというバーテンダーがいた。
 現在は祖国のアメリカに帰ってしまったスタンだが、その彼が言った言葉に「ローカルルールはルールではない」というものがある。
 この言葉を聞いた常連客の大学教授は「けだし名言」だと評したが、私もそう思ったものだ。
 実はこのときのシチュエーションも、今回の私と同じく携帯電話の使用に関わるものだった。
 常連の間では携帯電話の使用がNGという暗黙の了解があるアバンティの店内で、友人との待ち合わせのために初めて来店した客が通話を始めたところ、常連客から注意されてしまった。
 それに対して初来店の客は「そんなルールはどこにも書いてないでしょう」と反論。そこで常連客は「そういうローカルルールなんだよ」と応戦し、スタンにも同意を求めたところ「どうぞお話しください。ローカルルールはルールではありませんから」と発言したのである。
 携帯電話というのは、登場した当初から公共の場所での使用に関して悪者扱いされがちなところがあったが、そういう扱いについて、感情的な意見は多く聞かれても、しっかりと科学的に理論立てて検証された話をほとんど聞いたことがない。結局いつも「マナーだから」でうやむやにされてしまって終わりだ。
 私の場合など、会話どころか画面を隠しての、メモとしての使用である。
 その程度のことを隣席の人物から「マナー違反」と捉えられたのだとしても、それは法律やルールではなく、そう思った隣席の人物の中での「不快感」が基準であろう。それはまさしく彼の中でしか通用しないローカルルールそのものである。
 明文化されない人の感情に他人が強制的に律されるというのは非常に恐ろしいことで、これは憲法19条に規定される思想信条の自由を明白に侵害している。
 もちろん憲法19条を持ち出すからには、同時に12条の「公共の福祉に反しない」ことが求められる。
 法解釈としての「公共の福祉に反しない」というのは、「他人の人権を侵害しない」ということである。
 ライブ会場でのメモ行為が他人の人権を侵害するものではないことは明白だろう。

 たかがメモ行為への注意だけで、大仰に憲法まで持ち出して……などと考えてはいけない。
 いまや政府与党でさえもが、堂々と憲法違反の法案を立法化させてしまうご時世である。
 身近なちいさな出来事であっても、誰にでもはっきりとわかる基準を基に考える癖をつけないと、知らないうちに流されてとんでもないところに連れていかれてしまうおそれがある。
 私だって、できることなら法律だのなんだの考えずに過ごしたいと思っているのだ。
 けれども、どんどん狭量になっていく世間の流れがそうさせてはくれない。せめてもの自己防衛のために、ものごとを理詰めで考えるようにしなければならないのだ。

 ところで、今回のライブ会場で初めて公表された来年のライブの情報というものが、これまた曲者であった。
 なんと特別先行予約の受付開始日時が、今回のライブの真っ最中である12月19日の20時だったのである。
 こんな特別先行予約をするような熱心なファンは、もちろんこの日のライブにも来ているのだろうから、ライブの真っ最中にスマートフォンから予約を入れた人も会場には多くいたものと思われる。
 いや、想像ではなく実際に予約受付開始時刻に会場内から予約をした者がいることを、とあるところで私は確認している。
 その人の証言では、ちょうどその時にはparis matchの代表曲のひとつである「太陽の接吻」が演奏されている最中であり、ライブ鑑賞に予約にと、大わらわだったということだ。
 もちろんその行為自体は禁止事項ではないのだが、スマートフォンではバックライトの光が漏れないように画面を隠すということもできないし、お金に関わることでもあるから、認証やら何やらで時間もかかるしで、もはや私のセットリスト記録どころの騒ぎではないだろう。
 私の右隣の人物が、もしそうした「ライブ中のライブ予約」をする人の隣に座っていたとしたら、それはもう発狂するほどの許せない状況ではないかと思うのだが、いかがだろうか?
 私が心配してしまうのは、別のどこかで同じようなことがあったときに、彼が彼の中でのローカルルールを基に注意をしてしまった結果、たまたま相手が本気の理論武装で論争を挑んできてしまったら困るのではないか、ということだ。
 もしそんなことがあったら、もちろん彼は論争で負けることになるのだが、それだけでなく、余計なことをしたばかりに騒ぎになって、周りにまで迷惑が及ぶことにもなってしまうだろう。

 自分の信ずる「マナー」は、単なる自分だけのローカルルールなのではないか?
 常にそうした自分への問いを忘れずに、徒に他人の権利を侵害しないよう心掛けたいものだと、隣席の人の行為によって再認識させられた夜であった。





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# by tima-formosa | 2015-12-26 07:02
 私には友と呼べる人がおらず、知り合いも極端に少ないのだが、それでも人に電話番号を口伝しなければならない機会は結構ある。そんなとき、私は人知れず葛藤している。
 「090-」と携帯電話の番号を伝えるとき、ここは「ゼロきゅうゼロ」と言うべきか、それとも「れいきゅうれい」と言ってもいいのか、ということなのである。
 もちろん本来の正解は後者の「れいきゅうれい」である。
 「0」の読みは日本語では「れい」であり、ほかの数字を日本語で読む以上は、「0」も「れい」と言うのが筋だと私は思っているし、実際、NHKのニュースなどで電話番号を伝えるときは、アナウンサーもそのように読んでいる。
 ところが世間一般では「0=ゼロ」が広く浸透しているようで、有名なCMソングにも「ゼロいちにいゼロ~」というものがある。
 通販番組でも、電話番号の案内は聞いたかぎりではほぼ「ゼロ」読みのようで、また、いろいろな問い合わせで電話番号が案内されるときにも、ほとんどが「ゼロ」読みなのである。
 「0」が「ゼロ」なら「1」は「ワン」で「2」は「ツー(トゥー)」だろう!?と思うのだが、そんな読み方をしているのを聞いたことは一度もない。

 かような次第で「0=ゼロ」が大勢を占めている状況を慮って、私も不本意ながら「ゼロきゅうゼロ」と伝えるようにしてしまっている(日和っている)のだが、そのように自分の心を偽ってまで周りに合わせていることへの自己嫌悪から、一度だけ「れいきゅうれい」で伝えたことがある。
 しかし、確認のためにオペレーターが復唱したのは「ゼロきゅうゼロ」であった。
 蟷螂の斧、か……。それ以降、私はささやかな抵抗をあきらめた。
 自分らしく生きるというのもなかなか難しいものだ。

 断わっておくが、以上はあくまでも「ここが日本語ならこっちも日本語でしょう?」という「流れ」にこだわったうえでのことであり、断じて「日本語にこだわった」結果ではない。
 最近では、「昔ながら」の日本語の良さを見直して、日本人としての心を云々…とのたまう輩も多いようだが、言葉というものは時代によって変化していくものであって、使われなくなった言葉には、使われなくなっただけの理由があるはずである。
 そういった淘汰された古いものを利用して、日本人としてのアイデンティティだのといった妙なことに利用しようという風潮には首肯できない。
 「ゼロきゅうゼロ」についても、私は言葉の流れとして違和感を感じているけれども、時代の変化につれて生まれた新しい日本語なのだろうと納得しようと思う。



 
# by tima-formosa | 2015-12-18 05:48

by tima-formosa