ブログトップ

straymoon.exblog.jp

あなたがそう思うのなら もうそれでいいです

 先日、安倍首相が盛大なギャグを飛ばしてみせた。
 曰く、「7割の憲法学者が、自衛隊に憲法違反の疑いを持っている状況をなくすべきではないかという考え方もある」とのことから、憲法9条第2項を変えて自衛隊を合憲の存在として明記したいとの考えを述べたらしい。
 もちろん、これはギャグである。あるいは一世一代の大ボケである。
 いや、普通ならばボケにはならないのだが、安倍首相その人が言うことによって、ボケとして完成されるのだ。
 安倍の発言のどこがボケなんだなどと、いまさら説明する必要もないと思うが、あえてツッコミを入れておくと、
 「9割の憲法学者が“違憲あるいは違憲の疑いがある”としていた米国戦争協力参加法案(政権による俗称は“安保関連法案”)を学者の声を完全に無視して“可決”しておいて、いまさら学者の意見をダシに使うのかよ!」

 一国の総理大臣を務める者が、まさか自分の過去の見解を完全に忘れるなどということはそうそうないだろう。
 先週の金曜日の夕飯の内容を覚えていないだとかいうことなら、あってもおかしくはないだろうが、自分が政治家としての言動の基本としているところをコロッと忘れて、180度正反対のことをやってみせるなんてことは、いくらなんでもありえない。
 もしそんな人物が首相に収まっているなどと知れたら、それこそ世界中からの信用問題にかかわってしまう。
 まあそういうわけで、今回の安倍の発言は、自分の過去の言動を踏まえたうえでの、正真正銘のギャグであり大ボケである。
 本人も本当なら、世界中の人にハリセンを渡して頭を差し出して「さあ、ひっぱたいて(ツッコんで)くれ!」と言いたいところだろう。
 もしくは発言の直後に、世界中の人々がいっせいに、そして盛大にコケてくれることを望んでいたのだろう。
 ただ、このギャグもしくは大ボケには問題があった。
 面白いんだが、ギャグとして済ましておいていいものではなかったのである。
 やはりギャグというのも、時と場所、自分の立場というものを考えなければならないのだ。

 かつて、たけし軍団の誰かの身内に不幸があった際に、葬儀に参列した団員たちが、棺にサツマイモを入れて焼き芋を作ろうとしたというエピソードがある。
 芸人同士だからこそ許されると思っていたのかもしれないが、さすがに一般の会葬者もいたことから止められたということだ。
 今回の安倍のギャグも、どこかの漫才師が安倍に扮して披露したのなら十分に面白く、ギャグとして成立するのだが(実際、ザ・ニュースペーパーあたりがやってくれそうな内容だ)、いかんせん、国会での質問に対する答弁であるだとか、安倍が総理大臣であるだとか、時と場所、立場が悪かったようだ。
 安倍首相でなければギャグにならないのに、安倍首相だからギャグにならない。これは痛恨の矛盾だった。
 というわけで、残念ながら安倍一世一代の大ボケは、それこそ大スベリして終わってしまった模様だ。

 え、ボケじゃなくて本気で言ってるって!?
 それなら一刻も早く病院へ連れてってあげないと!





.
[PR]
# by tima-formosa | 2016-02-07 23:48
 毎朝の通勤のたびに、いつも不思議に思うことがある。
 近所の団地の最寄りバス停、その先のいくつもの市街地方面へのバス停、それらを自転車で通過するたびに、そこでバスを待つ人々のほとんど90%以上が、スマートフォンを操作しているのである。
 スーツを着た会社員、制服姿の高校生、40代かと思われる婦人等々、さまざまな世代や性別の人々がみな一様に、一心不乱といった様相を呈してスマートフォンに見入ってまったく同じ姿勢をとっているというのは、ある種の異様さを感じざるをえない。北朝鮮のマスゲームに感じるものに共通するところがあるようにさえ思える。
 またあるいは、前方の高校生の自転車が、やけにゆらゆらと左右に揺れながら不安定な走行をしていることがある。
 追い抜きざまに見てみると、高校生は左手で持ったスマートフォンの画面を眺め、時に右手で操作しながら運転(当然だが手放し運転。しかも前を見ていない)しているのであった。
 私も車の運転をしていて信号で停まったときなどに本を読むことがあったりするが、さすがに走行中に読むということはしない。当たり前の話だが、前が見えないからである。
 いくら自転車とはいえ、道路交通法の上では「車両」の一種であり、自動車の仲間ともいえる。
 その走行の最中にまでスマートフォンを見るとなると、これはもはや中毒である。
 いったいスマートフォンの何が、彼らをそこまで夢中にさせてやまないのであろうか?

 こんなことを考えてしまうのは、私もひと月ほど前に、スマートフォンを導入したからである。
 それまでの電話が物理的に破損したことや、音楽家の知り合いにリアルタイムでライブ写真を送信する必要などを考えて、ほとんど仕方なくといった感じでの導入だったのだが、これが非常に面倒くさいシロモノなのである。
 たった一文字の入力をするだけでも、指先の力加減に細心の注意を払わないと思わぬ文字が入力されてしまったりで、大変なストレスである。
 もともとほとんどメールや電話をしないこともあり(する相手がいない)、携帯電話と向き合う時間そのものが少なかったのだが、スマートフォンに変えてからというもの、そのあまりの面倒くささから、さらに電話離れが進んでしまったのである。
 そういった自分の事情とは正反対に、世間の人々はちょっとした時間があれば、すぐにスマートフォンの画面に見入っているようであり、私から見れば「あの人たちはあれほどまでにスマートフォンに集中して、いったい何をしているのだろう?」と不思議で仕方ないのだ。

 私はべつにスマートフォンに四六時中見入っていること自体に批判的な感情を持っているわけではない。
 人それぞれにそれなりの事情や必要があって使っている結果が、通勤のときに見る「一億総スマホ」の光景なのだろう。他人のプライベートな事情に足を踏み入れないのは、基本的人権の尊重の基本である。
 私が疑問に思うのは、あくまでも彼らが「それほどまでに」スマートフォンの使用を必要とする理由の方なのである。
 自転車の高校生の例を挙げたが、彼の場合、ある意味では命の危険を冒してまでスマートフォンを使用しているのだ。
 雪山や樹海での遭難でもない、街中の日常的なシチュエーションで、命懸けでスマートフォンを使わなければならない、その理由はいったいなんだ!?私は知りたい。

 もうひとつ知りたいことがある。
 スマートフォンのことを略すと、なぜか「スマホ」になる。
 本来は「スマフォ」だと思うのだが、みんなはどう思っているのだろうか?
 私は変だと思うからなるべく略さないで「スマートフォン」と言うか、いっそ「電話」と言ってしまうのだが。




.
[PR]
# by tima-formosa | 2016-01-23 15:32
 タイトルに惹かれて『超高速!参勤交代』の文庫本を読んでみたのだが、なんとも後味の悪い本だった。
 最初から最後までバカバカしくて荒唐無稽であれば、エンターテインメントとしてこういうのもアリかな、と思えたのだろうが、なまじ基本的な設定や時代考証などが比較的しっかりしていて、主人公の湯長谷藩主が心優しく領民想い、弱者想いの人物として具体的に細かく描かれているために、最後のあたりの展開に首を傾げざるをえないのである。

 さまざまな障害を乗り越え、なんとか刻限内に江戸までたどり着いた主人公の政醇だが、江戸城の入口で敵の差し向けた軍勢に取り囲まれてしまう。
 そこで、敵と大立ち回りが繰り広げられることになるのだが、心優しいはずの政醇をはじめ、家臣たちまでもが、なんのためらいもなく敵の手足や首を刎ね飛ばしまくり、大槍で敵を串刺しにしまくるのである。
 やらなければ自分たちがやられてしまう、というのは理解できるが、それにしても凄まじいほどの大量虐殺なのである。
 しかも戦いを続け、敵を殺めていくうちに、気分が高揚して楽しくなってきたと家臣が述べる描写まであるのには、空恐ろしさを覚える。
 弱いものを守るため(という名目)、自分の愛する人たちを守るため(という名目)なら、自分たちと敵対する者を殺しまくってもOK!罪悪感などまるでナシ!なのである。
 これでは百田尚樹の『永遠の0』とさして変わらないではないか。

 本とテレビ番組を比較するのは筋違いかもしれないが、同じ時代劇である『暴れん坊将軍』は、ツッコミどころ満載のストーリーやコミカルな演出もあって、非常に優れたエンターテインメントだと私は評価しているのだが、それは大立ち回りでも基本的には峰打ちであって、無駄な殺生はしていないというところも大きく貢献しているように思う。
 対して『超高速!参勤交代』は、後半にいたるまでの牧歌的な描写や、家臣の相馬の機転などのコミカルな描写が、クライマックスで描かれる大量虐殺シーンを違和感を持って浮き立たせる結果となってしまってはいないだろうか。
 映画の脚本となることを前提とした筋書きであることから、ある程度の大掛かりな「見せ場」が必要なことは理解できるが、物語全体での整合性を図ったうえで、もうすこし違ったかたちにできなかったのか?
 いま世の中は、対テロの名目で、力による他者の捻じ伏せを当然視する風潮が強いが、この『超高速!参勤交代』も、そういった風潮を煽る一助にならなければよいが……





.
[PR]
# by tima-formosa | 2015-12-28 20:24
 先週の土曜日、paris matchのライブ鑑賞のために上京した。
 今年で3年連続となったが、去年までの中央区銀座から、今年は会場が目黒区の恵比寿ガーデンホールに変わった。
 ホールは恵比寿ガーデンと呼ばれるところにあり、クリスマス間近とあって、一帯にはきらびやかに電飾が施されている。
 銀座だ恵比寿だと、paris matchのライブは小洒落たところばかりで開催される。そのうえクリスマスは私の人生にはなんの関係もないイベントであり、私のようなしょぼい中年のおっさんにして田舎者のおのぼりさんなど、この場には場違い以外の何物でもないのだが、私以外の多くの人々は、電飾や周辺に漂うムードとやらを楽しんでいる様子だ。
 世相は確実に昭和20年以前のような方向に向かって大逆走を続けているさなかだが、それでもこうして表面上は平和に見える。
 安倍首相をはじめとする極右たちの思惑どおり、日本が米国などの戦争に協力して、挙句に報復を受けて、見た目の平和さえも失われてしまわないことを願うばかりである。

 ライブが始まってしばらくしてから、私は携帯電話のメモ機能を使って、セットリストを記録しはじめた。
 もちろん携帯電話は開演前のアナウンスにしたがってマナーモードにしてある。
 液晶画面のバックライトで周囲の観客に迷惑が及ばないように、画面は手で隠しながらブラインドタッチで、しかも使っている時間が極力短くなるように、自分だけにわかる略語で手短に入力していた。
 1曲の間で入力にかかる時間は長くても20~30秒程度。そうして4曲目の入力をしていたときのことである。
 右隣の観客が肘で私を小突きながら「外でやりなさいよ」と言ってきたのである。
 詳細な検証は後述するが、私の行為のどこかに違法性やルール違反があっただろうか?
 仮に違法性があるならば、即座にやめなければならないことである。
 また、違法性がなくても、これ以上お互いに嫌な思いをしないためにも、諍いの元となる行動は慎んだほうがいいのかもしれない。
 というわけで、私は後者の理由により、セットリストの記録をとりやめた。
 安倍首相をはじめとする極右たちを反面教師として、自分で妥協できる範囲であれば、周囲の人や国と無駄に波風を立てるようなことは避けるのが賢明な生き方である。

 さて、私の行為についての違法性の検証である。
 まず、私がしていたのは携帯電話のメモ機能を使ってのセットリストの記録。
 たとえば「Passion8 Groove」であれば「8」といった感じに略語で入力する。
 もしこれが音声入力で「はち」と言って録音していたとしたら、それがたとえ自分の言葉であっても、録音行為自体が会場の禁止事項にあたり、ルール違反であるから隣席の注意は妥当である。
 ところが、事前アナウンスでは「携帯電話は、あらかじめマナーモードにするか電源をお切りいただくよう、ご協力を(以下略)」とのことで、そのどちらかの選択ということは、音が出てしまうことこそが問題なのであって、使用そのものは禁止事項とはされていないと解釈してよいだろう。
 つまり、通話は音声によって物理的にライブ興業を阻害するのでNGだが、メモ機能の使用では音声の問題は関係せず、ルール違反ではない。
 もしメモ機能の使用までNGなのだとしたら、紙と筆記具を使用したメモも、単なる使用器具の違いなのだからNGとしなければ整合性を欠くことになり、それは通常考えられることではない。それすらNGなのだとしたら、音楽誌のライブリポートなど成り立たないだろう。
 というわけで、理詰めで検証していけば私の行為に違法性はなく、ルール違反でもない。
 もちろん私は事前にそこまで考えたうえでセットリストの記録をしていたのだが、現実には私は隣席から小突かれたうえで注意されてしまった。これをどのように解釈すべきであろうか?
 単純に「マナーの問題」と考えてしまうと、これは問題が非常に拡散し、かつ曖昧になってしまう。
 マナーというのは、ある意味ローカルルールに近いところがあり、人や地域、さらには立場によって捉え方や適用に差異が生じるからだ。

 かつて、東京の港区元麻布にあるアバンティというイタリアンレストランのウェイティングバーに、スタン・マーロウというバーテンダーがいた。
 現在は祖国のアメリカに帰ってしまったスタンだが、その彼が言った言葉に「ローカルルールはルールではない」というものがある。
 この言葉を聞いた常連客の大学教授は「けだし名言」だと評したが、私もそう思ったものだ。
 実はこのときのシチュエーションも、今回の私と同じく携帯電話の使用に関わるものだった。
 常連の間では携帯電話の使用がNGという暗黙の了解があるアバンティの店内で、友人との待ち合わせのために初めて来店した客が通話を始めたところ、常連客から注意されてしまった。
 それに対して初来店の客は「そんなルールはどこにも書いてないでしょう」と反論。そこで常連客は「そういうローカルルールなんだよ」と応戦し、スタンにも同意を求めたところ「どうぞお話しください。ローカルルールはルールではありませんから」と発言したのである。
 携帯電話というのは、登場した当初から公共の場所での使用に関して悪者扱いされがちなところがあったが、そういう扱いについて、感情的な意見は多く聞かれても、しっかりと科学的に理論立てて検証された話をほとんど聞いたことがない。結局いつも「マナーだから」でうやむやにされてしまって終わりだ。
 私の場合など、会話どころか画面を隠しての、メモとしての使用である。
 その程度のことを隣席の人物から「マナー違反」と捉えられたのだとしても、それは法律やルールではなく、そう思った隣席の人物の中での「不快感」が基準であろう。それはまさしく彼の中でしか通用しないローカルルールそのものである。
 明文化されない人の感情に他人が強制的に律されるというのは非常に恐ろしいことで、これは憲法19条に規定される思想信条の自由を明白に侵害している。
 もちろん憲法19条を持ち出すからには、同時に12条の「公共の福祉に反しない」ことが求められる。
 法解釈としての「公共の福祉に反しない」というのは、「他人の人権を侵害しない」ということである。
 ライブ会場でのメモ行為が他人の人権を侵害するものではないことは明白だろう。

 たかがメモ行為への注意だけで、大仰に憲法まで持ち出して……などと考えてはいけない。
 いまや政府与党でさえもが、堂々と憲法違反の法案を立法化させてしまうご時世である。
 身近なちいさな出来事であっても、誰にでもはっきりとわかる基準を基に考える癖をつけないと、知らないうちに流されてとんでもないところに連れていかれてしまうおそれがある。
 私だって、できることなら法律だのなんだの考えずに過ごしたいと思っているのだ。
 けれども、どんどん狭量になっていく世間の流れがそうさせてはくれない。せめてもの自己防衛のために、ものごとを理詰めで考えるようにしなければならないのだ。

 ところで、今回のライブ会場で初めて公表された来年のライブの情報というものが、これまた曲者であった。
 なんと特別先行予約の受付開始日時が、今回のライブの真っ最中である12月19日の20時だったのである。
 こんな特別先行予約をするような熱心なファンは、もちろんこの日のライブにも来ているのだろうから、ライブの真っ最中にスマートフォンから予約を入れた人も会場には多くいたものと思われる。
 いや、想像ではなく実際に予約受付開始時刻に会場内から予約をした者がいることを、とあるところで私は確認している。
 その人の証言では、ちょうどその時にはparis matchの代表曲のひとつである「太陽の接吻」が演奏されている最中であり、ライブ鑑賞に予約にと、大わらわだったということだ。
 もちろんその行為自体は禁止事項ではないのだが、スマートフォンではバックライトの光が漏れないように画面を隠すということもできないし、お金に関わることでもあるから、認証やら何やらで時間もかかるしで、もはや私のセットリスト記録どころの騒ぎではないだろう。
 私の右隣の人物が、もしそうした「ライブ中のライブ予約」をする人の隣に座っていたとしたら、それはもう発狂するほどの許せない状況ではないかと思うのだが、いかがだろうか?
 私が心配してしまうのは、別のどこかで同じようなことがあったときに、彼が彼の中でのローカルルールを基に注意をしてしまった結果、たまたま相手が本気の理論武装で論争を挑んできてしまったら困るのではないか、ということだ。
 もしそんなことがあったら、もちろん彼は論争で負けることになるのだが、それだけでなく、余計なことをしたばかりに騒ぎになって、周りにまで迷惑が及ぶことにもなってしまうだろう。

 自分の信ずる「マナー」は、単なる自分だけのローカルルールなのではないか?
 常にそうした自分への問いを忘れずに、徒に他人の権利を侵害しないよう心掛けたいものだと、隣席の人の行為によって再認識させられた夜であった。





.
[PR]
# by tima-formosa | 2015-12-26 07:02
 私には友と呼べる人がおらず、知り合いも極端に少ないのだが、それでも人に電話番号を口伝しなければならない機会は結構ある。そんなとき、私は人知れず葛藤している。
 「090-」と携帯電話の番号を伝えるとき、ここは「ゼロきゅうゼロ」と言うべきか、それとも「れいきゅうれい」と言ってもいいのか、ということなのである。
 もちろん本来の正解は後者の「れいきゅうれい」である。
 「0」の読みは日本語では「れい」であり、ほかの数字を日本語で読む以上は、「0」も「れい」と言うのが筋だと私は思っているし、実際、NHKのニュースなどで電話番号を伝えるときは、アナウンサーもそのように読んでいる。
 ところが世間一般では「0=ゼロ」が広く浸透しているようで、有名なCMソングにも「ゼロいちにいゼロ~」というものがある。
 通販番組でも、電話番号の案内は聞いたかぎりではほぼ「ゼロ」読みのようで、また、いろいろな問い合わせで電話番号が案内されるときにも、ほとんどが「ゼロ」読みなのである。
 「0」が「ゼロ」なら「1」は「ワン」で「2」は「ツー(トゥー)」だろう!?と思うのだが、そんな読み方をしているのを聞いたことは一度もない。

 かような次第で「0=ゼロ」が大勢を占めている状況を慮って、私も不本意ながら「ゼロきゅうゼロ」と伝えるようにしてしまっている(日和っている)のだが、そのように自分の心を偽ってまで周りに合わせていることへの自己嫌悪から、一度だけ「れいきゅうれい」で伝えたことがある。
 しかし、確認のためにオペレーターが復唱したのは「ゼロきゅうゼロ」であった。
 蟷螂の斧、か……。それ以降、私はささやかな抵抗をあきらめた。
 自分らしく生きるというのもなかなか難しいものだ。

 断わっておくが、以上はあくまでも「ここが日本語ならこっちも日本語でしょう?」という「流れ」にこだわったうえでのことであり、断じて「日本語にこだわった」結果ではない。
 最近では、「昔ながら」の日本語の良さを見直して、日本人としての心を云々…とのたまう輩も多いようだが、言葉というものは時代によって変化していくものであって、使われなくなった言葉には、使われなくなっただけの理由があるはずである。
 そういった淘汰された古いものを利用して、日本人としてのアイデンティティだのといった妙なことに利用しようという風潮には首肯できない。
 「ゼロきゅうゼロ」についても、私は言葉の流れとして違和感を感じているけれども、時代の変化につれて生まれた新しい日本語なのだろうと納得しようと思う。



 
[PR]
# by tima-formosa | 2015-12-18 05:48
 このところの過密労働によって、先月末から今月末までの残業代が基本給部分の額を上回った。
 そんなことが起きるのは、単純に残業代がいつもより格段に多いことだけが理由なのではなく、基本給が低いというのも理由のひとつなのではあるが、いずれにしても総支給額が通常より多かったのは事実である。
 そういった理由で、両親にすこしばかりの小遣い銭のつもりで臨時に金を渡したら、存外に喜ばれた。
 私がふたりにできる孝行といえば、こんな感じの金銭や物質面でのことくらいしかない。
 ふたりが本当に望んでいる私からの「孝行」は、もっと別のことだということはよくわかっている。
 わかっているが、そればかりは私の生まれもった運命によってできないということが判明している。
 金を費やしてしかるべき場所に相談すれば、運命を無理矢理に曲げてしまうこともできなくはないのかもしれないが、私のような者に人生上の関わりを持たされてしまったら、相手が気の毒だし迷惑だろう。
 そういったわけで、私には本当の親孝行は生涯できない。
 ふたりの気持ちを考えるとつらいが、そんなふたりを見ていなければならない私だってつらいのだ。


 サッカーJリーグのある外国人選手に対して、人種差別のツイートをした対戦チームの「サポーター」がいたという。
 それを知ったその外国人選手は、「まさかこの国でそういう目に遭うとは思いませんでした」とのコメントを出したという。
 この外国人選手は、ある意味では幸運だったのだと思う。
 排外主義、ヘイトスピーチ、弱者排除という魑魅魍魎が大手を振って跋扈し、それを諫めるどころか暗に奨励、扇動する政府を戴くこの日本で、いままで差別されていると感じることなく過ごすことができていたのだから。
 だが、いまこうして昨今の日本の素顔に触れてしまったからには、もう幸せなど感じることはできないだろう。
 いまのいままで、日本のひどい差別の現状を知らなかったのは、おそらく彼が日本語を理解できないという理由によるものだったのだと思う。
 このまま彼が日本に住み続けてゆくとして、だんだんと日本語を覚えていったとする。
 そのとき、日本語の理解と正比例して、巷のヘイトや差別、排外主義の横行に気付かされてゆくことになるだろう。
 これ以上の失望を感じないためにも、彼はこんな日本なんかから脱出した方がいいように思える。


 DTM講座の最終日に行ってきた。
 最後の最後まで、なにも仕上げることもできずに終わるのもどうかと思ったので、出かける前の時間に、少ないレパートリーの中から1曲を演奏して、オーディオデータとMIDIデータとして持っていった。
 自分の演奏を客観的に聴くという機会がほとんどなかったため、あらためて聴いてみると、とにかくヘタクソだ。
 オーディオデータの方はすぐに廃棄し、同じ演奏によるMIDIデータをいろいろ細かく直してみた。
 DTMによって、自分のヘタクソな演奏が少しはマシになっていくというのが、なんだか笑えてしまう。これはある意味インチキなのだから。
 技術の進歩によって、私のような才能のない者にも、才能のある人が楽しんでいる世界に少しは近づくことができる。こういった技術の進歩なら大歓迎だ。
 逆に、兵器などの人を不幸にする以外に使い道のない技術は、どんどん退化して盲腸のように不要とされるものになっていってほしいと切に願う。
[PR]
# by tima-formosa | 2015-11-29 13:30
 9月末から10月末までの残業時間は110時間。
 私の勤め先では30分未満の「端数」は切り捨てられてしまうので(もちろん違法)、実際にはもうすこし多かったはずだ。
 出勤した当日に自宅まで戻れた日は片手で数えられるほどで、ほぼ毎日、日をまたいでの帰宅だった。
 未明の3時半まで仕事をして、帰宅してから1時間とすこしだけ眠って(というより仮眠して)、またすぐ8時には会社に戻ったという日もあった。
 こういう日々が続けば、当然私生活にも影響が及ぶ。
 日常の用事は、すべて週末の休みの日だけで済ませなければならない。
 その休みの日も、実際には何日か出勤している。
 現在の受注状況から類推すると、こういった状態が来年の4月までは続くことになっている。
 生活不必需品である趣味は、完全に後回しとなる。

 ここ1か月ほど、ほぼピアノには触れていない。
 練習していないから、教室にもおいそれと行くことができない。
 CUBASEにいたっては、先月頭に何も準備できていないのに無理して受講したときに起動させただけで、それ以外では一度も起動させていない。
 深夜の1時2時に帰宅してから、ピアノの鍵盤をガチャガチャさせるわけにはいかない。
 根を詰める作業の必要なDTMを帰宅してからしていたら、わずかな睡眠時間さえなくなってしまう。
 こういう状態で、いつまでも教室の生徒でいるわけにはいかない。
 特に、事前の仕込みに時間がかかるDTM教室を受講するのは無理だ。

 結局、DTM教室は退会することにした。
 受講日の調整で先生には迷惑をかけてしまったが、そのうえで決まった受講日にさえ通えなかったのだから、辞めるよりどうしようもないだろう。
 残りはピアノ教室の方だ。
 こちらはチケット制のため、チケットの有効期限が切れてから数か月で自動的に退会ということになる。
 そうなってしまうまでに、どれだけの練習時間が取れて、教室に行くことができるのか?
 現状では見通しが立たない。

 人並みに計画的な生活を送ることもできない状況に陥っている私だが、これも運命により決まっていたことなのだろう。
 そういうふうにできている。
 これからも私はすべての状況をそのまま受け入れて息をしていく。




.
[PR]
# by tima-formosa | 2015-11-09 06:50
 すすき野原の写真を撮るために稲取の細野高原へ行ってきた。
 国道414号で河津まで出て、国道135号を伊東方面にすこし戻ると、道端に「←稲取細野高原」という立て看板が置かれていたので左折。
 ところどころに置かれている立て看板に導かれて進むのだが、とても観光地に通じているとは思えない、農道や林道のような山中の細道だ。
 最後までそんな心細い道のまま、第2駐車場までたどり着いた。「知られざる秘境」と謳って宣伝しているようだが、たしかに秘境ではある。
 事前の情報では、イベント期間終了の11月上旬までは、第2駐車場から徒歩あるいはシャトルタクシーに乗り換えて先へ行くことになるはずだったのだが、誘導案内していた人の話によると、今日はイベントが中止になったので、奥までそのまま行けるのだという。
 細野高原への入山にはお金が取られるという案内を見てきたのだが、受付前では止められることもなくそのまま通過。
 よくわからないのだが、入山料というのは一帯の維持管理費用の負担という意味ではなく、イベント開催諸経費の負担という意味だったのだろうか。

 第1駐車場に車を停めて、眺めのいいところを探して歩く。
 出発が遅かったので、到着時にはすでに15時を回っていた。あまり時間がない。
 太陽はすでに山の稜線に近づいている。
 すすきといえば、私は夕方の逆光でこそ魅力が最大限になると思っているので、タイミングとしては最高といえなくもなかったのだが、なにしろ初めて来た場所で、撮影ポイントなどもまったくわからない。
 本来なら、もっと早くに到着して事前にいい場所を見極めておいてから、撮影に最適な時間まで待つべきだったのだろうが、連日の午前様帰宅で疲れ果てていて、午前いっぱいダラダラしてしまったのだった。
 とはいえ、撮影という目的を離れれば、いままさに見ごろの時刻を迎えたすすき野原が見渡せる広々とした景観はなかなかのものだ。
 黄色味の強くなった日の光を受けて、金色に輝きながら波打つすすきの穂は、尾花栗毛のサラブレッドが群れをなして走っているかのようにも見える。
 すこし先の山の稜線には巨大な風車が並んでいて、風を受けて結構な速度で回っている。
 「コーッ」という低いうなり音も聞こえてくる。
 見渡すかぎりのすすき野原に、超然と立ち並ぶ風車。
 ひと気もなく木も少ない、ある意味荒涼ともいえるようなところに、巨大な人工物が無機質に回転を続ける光景に、不条理世界に迷い込んだような気分にさせられる。
a0338326_7104490.jpg
a0338326_7113644.jpg
a0338326_7151438.jpg
a0338326_07431866.jpg
a0338326_07433298.jpg

 結局いい写真は撮れなかった。
 才能(センス)と腕がないのが最大の理由であって、これはもうどうしようもないものだ。
 才能のない私には、数をこなして偶然の大当たりに期待するしかない。
 誰にでも狙っていい写真が撮れるのなら、世にプロカメラマンなどという職業は必要なくなってしまう。




.
[PR]
# by tima-formosa | 2015-10-25 07:20
 「村上春樹がノーベル文学賞受賞をまた逃した」という「ニュース」が、今年もまた瞬間的に沸き立って、瞬時に消え去っていった。
 私は一度も彼の作品を読んだことはないし、それどころか彼の作品のあらすじさえ1作も知らないので、彼の作品の中身について論じることはできないが、世界でもっとも有名な日本人作家のひとりであり、その著作の評価も高く、「世間では受賞が有力視されている」という客観的状況が事実であることは認めないわけにはいかない。
 ただ、私が認めるのはあくまでも「世間でどのように言われているか」という客観的状況についてのみであって、その状況が、厳然たる事実に裏付けられたものであるかどうかは、また別の話になってくる。
 どういうことかというと、これだけ毎年「受賞が有力視され」ていながら、いつまでたっても受賞がならないとなると、そもそも文学賞の候補者としてノミネートされていることから疑わなければならないということだ。
 考えてみれば、有名な直木三十五賞の場合は、候補作品が事前に公表されていて、確実にその中から選定されている。
 ところが、ノーベル文学賞の場合、「○○さんがノミネートされました」という話をいままで聞いたことがない。
 普通に考えて、誰かがなにかの賞を受賞する可能性を論じる場合、まずは候補者としてノミネートされていなければ話にならないはずで、それはもっとも大事なことのはずなのだが、世間での前評判は、あくまでも風評にのみ依って立っていなかったか?ということだ。

 そう思っていたところ、やはりというかなんというか、そのあたりの事実がネットニュースを読んで明らかになった。
 ノーベル文学賞の候補者というのは、その年の受賞者発表から50年後にならないと公表されないのだそうだ。
 つまり、今年も去年もおととしもさらにその前の年もさらにその(以下略)村上春樹がノーベル文学賞候補としてノミネートされていたのかどうかは、選定している人以外は50年待たなければ知ることができないということだ。
 どこの誰がノミネートされているのかすらわからないのに、ファンはともかく、どこかの自称「事情通」を含めた多くの人々が、勝手に受賞するかもしれないと空騒ぎしていたということになる。
 村上春樹はノミネートすらされていなかったが、代わりに(?)あの百田尚樹がノミネートされていた!などというトンデモな事実が明かされるという可能性もないことはないことはないのかもしれないが(いや、絶対にありえないが)、ともかくすべては50年経たなければわからないのだ。
 これではとんだ笑い話ではないか。
 50年後といえば、私は確実に死んでいるだろう(というか死んでいたい。こんな世の中に長生きなどしたくない)。だから、私は一生かかっても村上春樹がノミネートされていたかどうかさえ知ることができないというわけである。

 あるもののファンが、その信奉する対象にハマってしまったばかりに見境なく突っ走ってしまうということは、ままあることだ。
 それについては、無関係の者に実害を及ぼさない限りにおいて構わないと思うのだが、そういった「暴走」を、根拠も薄弱なのにニュースとして一般に広めてしまう風潮というのは、そもそもどうなのか?と思う。
 世の中には、とても大事なことなのに、意図的に取捨されて報道されないことがたくさんある。
 その一方で、騒ぐ必要も根拠もない「ニュース」が流されて、それが「ニュースで見たから」という理由にならない理由によって、批評眼のない多数の人々に重要なことであるとして受け止められてしまう。
 この国の病理の根源のもっとも重大なもののひとつだろう。

 ところで、村上春樹の作品は面白いのだろうか?
 とりあえず、話題ばかりが先行している時点で内容にまでは興味を惹かれないし、ほかに読みたい作品がいくらでもあるので、手に取ることもしていないのだが。
 いまのままだと、もし読むことになるとしても、優先順位からいって後回しも後回し、それこそ50年くらい経たないと読むことはないのかもしれない。
 そのとき私はすでに死んでいるわけだが。
[PR]
# by tima-formosa | 2015-10-10 07:46
 米軍戦争支援・参加法案が可決されたということになってから半月弱。
 委員会採決の議事録では「議場騒然、聴取不能」となっていて、正式には委員会採決は存在せず、したがって法案は参議院に送られるわけもなく、可決されるはずなどないのだが、どうやら世の中のすべてのことは政府与党が黒といえば白でも黒となるようにできているらしいので、可決なんだろう。

 数年前のあるできごと以来、たとえ私が自分の思いをそのまま伝えようと意を尽くしたところで、相手次第で私の思いなどどうにでも転がって受け取られてしまうのだということを悟ってから、私は世の中のほとんどすべてのことがどうでもよくなってしまっていた。
 人の思いや考え方は多様で、自分には手出しできないことなのだから、もう自分の気持ちを他人にわかってもらおうなどと期待するのはやめよう、と思ったものだ。
 それでも世の中には厳然たる事実というものはあって、それだけは動かしようのないものなのだから、そこを拠り所にしていくしかないと考えて、なんとかいままで息をしてきた感がある。
 ところが今回の「法案」の件では、厳然たる事実でさえも、人によってはなかったことにされてしまったり、平気で書き換えられてしまうものなのだということを目の当たりにしてしまった。まさに白が黒ということにされてしまったのだ。
 もはやこの世には信じられるものなど自分以外なにひとつ残っていないようだ。
 今度こそ、私は世の中のすべてのことが本当にどうでもよくなった。

 信じられるのは自分だけという状況で、今の私がこの世で息をしていくうえでの慰みは、おいしいものを食べることと読書程度だ。それにピアノの練習がほんのすこしの割合で付け加わる。
 なにかを食べておいしいと感じる。それは私自身の判断であって、他人の解釈など一切関与せず、変えようもない私にとっての厳然たる事実である。
 本を読んで、面白いと思ったりつまらないと思ったり、さまざまな感想を持つ。それも私自身にとっての厳然たる事実であり、他人の解釈などまったく関係ない。

 さて、そんな中で先日読んだ浅田次郎の『月島慕情』所収の「シューシャインボーイ」で、単純な疑問が浮かんだ。
 その話は、シューシャインボーイという競走馬がG1競走に優勝するところから始まる。
 G1とは明記されていないが、優勝賞金が1億円とあるから、中央競馬のG1で間違いないだろう。
 シューシャインボーイという馬名の由来や意味を説明するのは、小説の筋を紹介することになってしまって、長くなるのでやめておく。
 私の疑問は、シューシャインボーイという名前は全部で10文字であって、中央競馬に登録される馬名の規定である「9文字以内」に収まっていない、というものだ。
 そういう馬が中央競馬の競走に出走するとなると、考えられる可能性は海外の競走馬ということになるが、話に登場する馬主は日本の企業の社長であり、預託している厩舎も中央競馬の調教師のところである。
 というわけで、これは作者の浅田氏のミスだろうと当初は思った。
 しかし、大のギャンブル好きの浅田氏にしては初歩的にして単純すぎるミスのように感じるし、担当編集者も気づきそうなものだ。
 そう考えると、別の解釈が生まれてくる。
 話の筋を重視し、あえて規定を無視して10文字の名前で押し通したのではないか?と。
 実際、競走馬の中には、本来の綴りでは9文字に収まりきらないため、無理矢理文字を削って9文字以内に収めてしまった名前の馬が多数存在する。
 たとえばニホンピロジュピタ(本来はニホンピロジュピター)などがそうなのだが、なんとも中途半端というか、個人的には間抜けな感じがする。
 もっと個人的な意見をいえば、5文字もの長い冠名(この場合「ニホンピロ」の部分。苗字のようなつもりか?)を付ける慣習をやめれば、もうすこし思いに沿った名前がつけられるのにと思ったりするところだ。
 それはそれとして、シューシャインボーイだが、この馬の名前から無理してあと1文字削るとなると、「シュー」の「ー」くらいしかないだろうが、それではまったく意味不明な名前となってしまう。
 それではまったく別の名前を…ということにしようとしても、この話の筋、登場する馬主の歩んできた人生から考えると、大きなレースを勝てそうな期待の馬にシューシャインボーイ以外の馬名をつけることなど考えられないだろう。
 それで、ここはもう小説の中の架空の世界ということで割り切って、規定は無視した名前で通してしまったのではないだろうか。

 こんなふうに、小説の背景まで想像することは自由であり、そうして想像した内容は、私の中では事実ということにできる。それを含めての作品への講評を「感想」というのかもしれない。
 あくまで真相を作者に確認するまでは、という限定的なものではあるのだが。
 そういうわけで、私の「感想」は現時点での私の中での事実だ。
 この世に残された私の最後の砦だ。
 こればかりは政府与党であってもねじ曲げることはできないだろう。
[PR]
# by tima-formosa | 2015-10-04 22:02
 無理が通れば道理が引っこむ。
 本当にひどいものだ。
 これで本当に法治国家といえるのだろうか?
 いや、本日をもって、この国は実質的に一党独裁による人治国家へと変貌した。
 ネット右翼たちが日頃から侮蔑し、嘲笑している隣国となんら変わらぬ国になったことを、国際社会に向けて声高らかに宣言したのである。

 以前にも述べたように、私が今回の「法案」についてもっとも問題視しているのは、解釈改憲というなんでもアリの超法規を通してしまったことである。
 時の政権が「俺は気に入らないわ」と思ったら、ルールもなにも関係なしに、好き放題に法律を変えてしまえるという最悪の前例を作ってしまった。
 これは、多くの人々の犠牲や経験を基に築きあげた近代社会秩序の礎である「法の支配」を、根底から覆し、徹底的に粉砕し踏みつぶす、最低最悪の鬼畜にも劣る所業である。
 ネット右翼たちは、この「法案」が可決されたことに喝采を送っているようだが、目先のこと~というより自分の精神的満足~しか考えない彼らには、こういった無法がまかり通ることによって、真綿で首を締められるように、ジワジワと自分の住む国を息苦しくしていき、いつか自分も取り返しのつかない事態に陥れられるということが理解できないのだろう。

 そういえば、以前私はネット右翼の思考回路について考察をしてみたことがある。
 そのときの結論は、端的にいえば「ネット右翼は自分と自分の身内だけの精神的利益のみを至上命題とする」であった。
 だが、この半年あまりの異常な状況を眺めながら、私はまた別の結論を導き出してもいた。
 それは「ネット右翼の最大目標は、“左翼”に嫌な思いをさせること」である。
 そう、なにかその事案に密接な利益や目的の完遂を目指すというわけではなく、すべては「いわゆる左翼」(以下「左翼」)に嫌な思いをさせることそのものが目的なのである。
 これまで、左翼が反対するような悪法について、たとえ政権の説明が論理的に破綻していてもネット右翼が賛成していたのは、その法案の中身について、政権と同じ意見だからとみられていた。
 そして、論理的に破綻していたり、明白に悪法であるからこそ反対している左翼たちと対立が生じるというのは、副次的な産物と思われていた。
 しかし実際にはそうではなく、左翼に対する嫌がらせをして、小選挙区制による虚構の数の力で悪法が通り、無念の思いをする左翼たちに追い打ちの罵声を浴びせ、自分たちの手柄でもないのに勝ち誇った気分を味わうことこそが最大の目的なのであった。
 これならば、「自分と自分の身内だけの精神的利益のみを追及する」ということも同時に達成することができる。
 もちろん、現実的には自分で自分の首を締めていることになるので、あまりにも無駄なカロリーの消費ということになるのだが……

 なにはともあれ、憲政史上どころか、人類史上稀に見る異常な後退劇となってしまったわけだが、これからどこまでこの国は転落を続けていくというのか。
 もうこれ以上のどん底などないと思っていたのに、次から次へとどん底が突き破られて、新たな奈落が出現してくるような感じだ。
 もう本当に、こんな国に住んでいたくなどないのだが、何の落ち度もない私が立ち退いて、悪以外の成分など0.1mgもない安倍のような物体が、のうのうと居座っているというのも釈然としない。
 そんなにアメリカ様に忠誠を誓いたいのなら、勝手に国籍離脱してアメリカ人になればいいのに。
 そうすれば、屁理屈を理詰めでやり込められて「自席発言(笑)」するような事態にもならずに済んだだろうに。
 あまりにも先が暗い。暗すぎる。
[PR]
# by tima-formosa | 2015-09-19 10:31
 バッハではない。
 どうやら私は記憶力が悪いらしい。
 らしい、というか、実際に悪い。
 以前、精神科に通っていたときにいろいろな検査をしたのだが、そのときにデータとして一時的な記憶の貯留量が少ないという結果が出ている。
 目や耳から入った情報のうち、多くがバッファをスルーしていってしまう。
 私の病気の典型的な症状のひとつでもある。
 治す方法はない。
 とりあえず、局所的に見ればそれほど実害もなくこれまで過ごしてきたようにも見えるのだが、大局的にはどうなのか。
 記憶力の薄弱を含む私の先天的な病気の影響によって、世間一般的に推奨されている人生(進路、というべきか)から要所要所で少しずつずれていって、いま現在の、どう見ても「普通」ではない私に外れていったという見方もできよう。
 まあ、それをも含めて私の生まれもって定められた運命なのだから、何を言ってもどうしようもない。

 ただ、情報のバッファ量が少ないとなると、実際に困るのがピアノの練習だ。
 私はどうにも楽譜を見ながら演奏するということができない。
 いままでにも練習はしてきたのだが、ほんの少しも上達しない。
 手の動きよりもすこし先を行く、先読みということが必要ということはわかっているのだが、そもそも、いま現時点で弾くべき音を確認することでも限界を超えてしまっているのに、先読みなどできるはずがない。
 私の先生には60を優に超える老婆の生徒もいるのだが、そういう人でさえ、「楽譜を見ないと弾けない」などということを言っていたりする。
 すでに老境にある人にも遠く及ばない私の一時記憶力。
 というわけで、結局はすべて暗譜しなければならないのだが、それも記憶のバッファが少ないため、進度が非常に遅い。
 一時的なバッファから恒久的な記憶へ、というプロセスを、何度も何度もくりかえさなければならないため、普通の人なら一週間もすれば弾けるようになる曲でも、私では半年かかってしまったりする。
 これは苦痛である。
 本来楽しいはずの趣味が苦痛になってしまったら、上達しないのは当然のなりゆきだ。

 ピアノに限らず、譜面を見ながら楽器を弾けるような人というのは、結局のところ演奏技術というよりも記憶のバッファがものすごく大容量な人なんだろうと思う。
 しかも、超大画素数の撮像素子をも備えているのだ。
 そしてそういう人は、楽器演奏に限らず、他のことでも高い能力を発揮できたりすることが多い。
 要するに、頭の回転が速いということだ。
 というわけで、結局のところ、私はすでに身体的レベルで楽器演奏に向いていないということになる。
 それでもピアノ教室をいまだに辞めずにいるのは、何度も述べてきたように、引きこもり対策のためである。
 引きこもりにならないようにするにもコストが必要なのだ。

 自分で望んで生まれてきたわけでもなく、さらにこんな先天性の持病まで生まれ持ち、世の中の片隅でもがき苦しみながら生息しなければならない。
 なんとも理不尽な話だが、それが私の運命だ。
 仕方ない。




.
[PR]
# by tima-formosa | 2015-09-13 06:06
 私が唯一定期的に見ているTV番組『ピエール瀧のしょんないTV』のイベント展が開催されているということで、会場の「すんぷ夢ひろば」へ行ってきた。
 a0338326_2343157.jpg
 地元在住とはいえ、ここに来るのは初めてである。
 なぜここが会場なのかといえば、番組内でいろいろな企画を行う多目的スペースである「しょんない秘密基地」が、場所を提供していた企業の都合で移転せざるを得なくなり、その移転先となったのが「すんぷ夢広場」の遊休施設となっていた建物群の一部だからである。
 秘密基地なのに客を入れてしまっていいのか?という疑問を持つ人もいるかもしれないが、移転に際して「しょんない秘密基地」は「しょんないランド」に改名されており、もはや秘密ではなくなっているので構わないのだと思われる。

 a0338326_23455222.jpg
 それにしても真っ先に感じるのは、人の少なさだ。この写真だって、わざと人がいないタイミングを見計らって撮っているわけではなく、本当に視界に人がいない状況が結構あるのだ。
 建ち並ぶなんとなく江戸時代風の建造物群の規模に反して、あまりにも閑散としすぎている。
 a0338326_433341.jpg
 人の気配の消えた白昼の町家が並ぶさまに、私は藤沢周平の「麦屋町昼下がり」の決闘シーンを想起した。
 しかし人がいないのも道理で、これら建造物のほとんどは有効活用されておらず、関係者以外は中に入ることもできなくなっているものばかりだ。
 そもそもここは「日光江戸村」の小規模なものとでもいうべきテーマパークだったのだが、施設の所在地が採算がとれる集客など到底望めない辺鄙な場所のため(私は創業オーナーの正気を疑っている)、開設からそう長く経たないうちに一旦は休業となり、運営会社が変わって、劇場などの温泉施設以外の要素をほとんど休止して営業を再開したという経緯がある。
 そんな空き物件だらけの施設だからこそ家賃無料が条件の「しょんない秘密基地」の移転先にできたわけで、提供した会場側としても、こういったイベントが開かれれば、ついでにメイン施設の温泉に立ち寄ってくれる人も出てくることを当然期待していることだろう。

 とりあえず温泉はおいておいて、なにはともあれ「しょんないTV展」である。
 a0338326_438566.jpg

 a0338326_4412752.jpg
 素寒貧とした入口を入ると、ゲームコーナー。私の若かった頃のゲームセンターの雰囲気に近い。
 a0338326_4422496.jpg
 ずらりと並ぶファミコンソフト(当時はみんな「カセット」と呼んでいたが)。「ちりファミ交換」の企画で集められたものだ。
 バッテリーバックアップ式のものは、もはやゴミ同然と思われるが、資料的価値だけはあるかもしれない。
 a0338326_4442651.jpg
 ピエール瀧を描いた広瀬アナウンサーによる油絵作品。この作品が出てきた回は未見。
 私は1年間だけとはいえ美術部に在籍していたにもかかわらず、美術に関してまったく造詣がないので、専門家のような評価はできないのだが、単純に素人目には「わりと上手いな」と思える出来のように見える。
 まったくの素人がここまで油絵を描けるとは思えないのだが、実際のところどうなのだろうか?
 a0338326_517438.jpg
 対してこちらのプラモデルは、塗装をしていないのはもちろん、バリ取りもおざなり、はみ出した接着剤もそのままと、完全な素人の素組みレベルだ。
 しかし、いまどきこんな若い女性がプラモデル作りを実際に趣味のひとつとして継続しているというのは、非常に貴重なことで、プラモデルに近い部類の趣味を持つ私のような「同類」としても歓迎すべきことである。
 facebookの投稿によると、彼女が最近作った作品では「スミ入れ」処理が施されたということから、徐々に腕も上がっているようだ。
 もっとも、超本格的な出来のものを作れるようになってしまったら、それはそれで広瀬アナらしくないようにも感じるが。
 a0338326_5377100.jpg
 もはや何が何だかさっぱりわからない……
 a0338326_5311113.jpg
 しょんないランド居間兼会議室兼応接室?
 この先にも若干の展示が続いて、ささやかな物販コーナーも設けられている。
 a0338326_5454442.jpg
 プロレスに興味のない私には、マスクマンの面白さについてはいまいち……。というわけで、このマスクが出てきた回は未見。
 a0338326_04002031.jpg
 これは本気で怖い。
 広瀬アナによる「バロンドール」という言葉の解釈を忠実に実体化したもの。
 ちなみに、私も「バロンドール」の意味は知らない。

 だいたいこんな感じで、ツボにはまるところがあれば面白いが、そうでなければまったく面白くないであろう展示だった。
 まあそれは番組自体の性質とまったく同じものであり、そういう意味では「らしい」展示でもある。
 a0338326_04304770.jpg
 最後の最後に出口でヤラれた。

 見終わってから、スポンサーへのお布施という意味もこめて、温泉施設へ寄った。
 なかなかいい感じの温泉ではあったが、ところどころにB級施設特有のヤレ感が見受けられる。
 「しょんないランド」のスポンサーとしては似つかわしいかな、とも思える。
 a0338326_601924.jpg





.
[PR]
# by tima-formosa | 2015-08-24 05:49
 最近になって、いろいろな有名人が極悪安倍政権が成立を目論む戦争参加法案に対して反対の声を上げるようになった。
 自民党に対して反対意見を表明すると、芸能界から干されるという風潮が昔からあるため、これまではなかなか政治的な意見を言えない空気が支配していたようだが、今回ばかりはそんなことを気にしている場合ではないということなのだろう。
 確かに、アメリカを標的とするテロとの戦争に日本が巻き込まれてしまったら、娯楽であり非生活必需品である「芸能」どころの話ではなくなってしまう。
 平和であるからこそ成り立っているのが彼らの世界なのである。

 私が戦争参加法案に反対する理由は、法案の内容そのものを評価する以前の問題として、そもそも集団的自衛権が明白に憲法違反なのだから、その行使を前提としたものを提出すること自体が法治国家として言語道断ということであり、法案の中身を問題視する多くの人の反対理由とは少し違っているようだ。
 しかし、法治国家として許されないという根本のところをあえて踏み越えて、法案の中身を見てみれば、これもやはりどうしようもないデタラメな、法としての体をなしていない「法案」であって、入り口もダメなら中身もダメというひどいものなのであった。
 こんなものを成立させてしまったら、世界中に日本の恥を晒すことになるだろう。
 日本国という「国家」が恥を晒すぶんには私は全然かまわないのだが、日本国が恥を晒すと、そこに住んでいる私も含めた「国民」までもが「国家」あるいは大馬鹿者の安倍らと同一視されて嘲笑の対象となってしまう。
 それはあまりにも不本意で理不尽で許しがたいことである。

 さて、政権の意向に反対する意見を表明する芸能人が増えてきたのと同じように、政権に媚びへつらうことを言う芸能人も出てきているようだ。
 つい最近では、尼崎出身の二人組漫才師のうちの片方が「反対するなら対案を出さなきゃダメ」みたいなことをのたまったそうだ。
 この「反対するなら対案を出せ」というのは、もっともらしく聞こえる言葉のため、よく使われるのだが、実はまったく理屈が通らないので無視してもかまわないことが非常に多い言葉なのである。

 わかりやすくするために今回の法案に話を絞って説明すると、この法案に反対するということは、いま直面している「危機」から目を背けて何もしないことである、というのが「反対するなら対案を出せ」という者の「理屈」である。
 しかし、たとえ「危機」に直面しているのだとしても、憲法違反の法案を通すというのは、世界中に「我が国は無法国家です!」と宣言するのと同じことであり、その「危機」の元となっているとされる「無法国家」と同列にまで自らを貶めることにほかならない。
 無法国家が無法国家を「お前らは無法国家だ!」と謗ったところで、なんの説得力もない。「お前が言うな」という話である。
 そして、賛成者の言う「危機」だが、これも説得力のある説明に接したことなど一度としてない。
 中国による東シナ海での油田開発は、そもそも中国の領海内での話であってまったく何の問題もない話だし、南沙諸島の開発云々も、集団的自衛権行使の必要性などまったく関係のないことである。
 彼らの話すことすべてが個別的自衛権で説明できてしまうことばかりなのである。
 そして、対テロ戦争に至っては、軍事力による抑止など働かないというのが全世界の常識である。
 要するに、法案の必要性の根拠という土台からして成り立っていない出来損ないのシロモノなのだから、「対案」などないに決まっているし、出す必要など皆無なのである。
 そして、これも大事なことなのだが、反対する側は、本来ならまったく必要ないから議会に提出されるはずもない法案について、勝手に提出してきやがった分からず屋の政権側に、本来ならする必要もなかった問題点の説明をわざわざしてあげている立場なのである。
 だから、ダメ出しをされた政権側こそが、「対案」(この場合「修正案」)を出すべき側なのである。
 もちろんその「対案」は、憲法違反の集団的自衛権行使を前提にしたものであってはならないので、結局は法案を引っ込めるしかないのだ。

 このように「反対するなら対案を出せ」という言い分は、場合によっては当てはまることもあるが、今回のような政権の身勝手によって提出された法案であれば、取り合う必要などない戯言である。
 強盗に入られた家の住人が凶器を突き付けられて「助かりたければ金を出せ」と脅される場面を見て、強盗に入っていることの理不尽さに気づきもせず、強盗側の言い分に少しでも理があると感じるのであれば、直ちに病院で診察を受ける必要があるだろう。
 「反対するなら~」などとつまらないことを言っているヒマがあるならば、中学生といっしょに公民の勉強をやり直すことをお勧めしておきたい。その濁りきった目からウロコがボロボロと剥がれ落ちるにちがいない。
[PR]
# by tima-formosa | 2015-08-09 22:09
 私にはお気に入りの行きつけの店が2軒ほどある。いずれも甘い食べ物や飲み物を提供する店である。
 そのうちの1軒がテレビで紹介されるというので、録画しておいてさきほど見終えた。
 感想はというと、テレビというのは「編集」さえしてしまえばなんでもアリだな、というものだ。
 放送内容は、肥満の大食漢であることを売りとする芸能人が、子役とともにローカル線に乗って終点まで行き、そのあとに沿線の飲食店や温泉施設を訪れるというものだったのだが、実際にテレビで放送されたことをトレースしようとすると大変なことになるのである。

 まず最初に、ローカル線の乗車駅前での前フリがあって、そこから今話題となっている前面に人の顔が取り付けられている蒸気機関車が牽引する列車に乗り込む。
 そして車内で名物となっているらしい車掌のハーモニカ演奏を聴いたりして、終点まで乗りとおす。
 下車した一行は、最寄りの河原で養殖ヤマメの手掴み捕獲体験をしたのち、昼食ということでとある料理屋に入る。
 知らない人が見ればなんということもない展開なのだが、実はこの料理屋、終点の駅から歩いたら、丸1日かかってしまう距離にある。
 というより、この店の最寄り駅は終点の駅ではなく、始発駅の方なのである。
 しかも、その始発駅からでさえも、歩けば1時間くらいはかかってしまう場所にある。
 その次に紹介された店が私の行きつけの店なのだが、この店も終点からはかなり遠く、強いて最寄り駅を挙げるならば、路線の中間地点に近い、途中駅ではもっとも利用客の多い駅が「最寄り」ではある。
 「最寄り」とカッコ付きで表記したのは、その駅と店とは直線距離でも2キロ弱離れていて、実際には間に幅の広い川があって、対岸から渡ってくるためには橋のあるところまで大きく迂回しなければならず、やはり歩けば1時間近くかかってしまうため、一般に言う最寄り駅とはかけ離れたロケーションだからである。
 最後に訪れた温泉施設の「最寄り駅」は、今度こそは終点の駅なのだが、やはり徒歩では1時間以上かかってしまう場所にある。

 仮にテレビで放送されたとおりの順番で各所を訪れていたのだとすると、
 ・始発駅から乗車
 ・終点で下車
 ・最寄りの河原で魚獲り
 ・始発駅のさらに下流まで戻って1軒目
 ・終着駅の方向にさかのぼりながら中間点で2軒目
 ・終着駅を越えて温泉
 このように、非効率にも同じようなところを1往復半していることになる。

 誤解を与えるおそれがあるのは、どの店も最寄り駅が終点の駅であるかのような編集がなされていることと、どの店も車利用での来訪が鉄板であり、鉄道利用から徒歩でアクセスするのは非現実的であることが説明されていないことだ。
 実際には、もっと効率的で現実的な順番でロケしていたのだろうが、地元の人ならともかく、よその人は放送されたとおりの方法と順番で行けると思ってしまう可能性がある。
 特に、普段から『ぶらり途中下車の旅』などの番組を見て、紹介されたところを実際に訪ねたりしている大都市圏の人などは要注意だ。
 鉄道網の発達した大都市圏と地方とでは、住民の「最寄り駅」の認識自体がかなり違うだろうし、上述のとおり、そもそも今回の番組で紹介されたところは、各々の「最寄り駅」がすべて異なっているのである。
 番組側としては「興味があったら詳しいことは自分で調べてくれ」くらいに思っているのかもしれないが、あの極悪安倍政権に過半数を与えてしまったほどに、簡単にテレビの情報に流されてしまう人が多い日本の国民性を、もうすこし考慮した方がいいのではないだろうか。
 駅と川と山以外なんにもない(それがいいと思える私のような者ならいいのだが…)ド田舎の終着駅までやってきてしまって、事実を知って途方に暮れる人が出てからでは遅いのだ。
 a0338326_810347.jpg

[PR]
# by tima-formosa | 2015-08-09 03:24

by tima-formosa