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あなたがそう思うのなら もうそれでいいです

 タイトルに惹かれて『超高速!参勤交代』の文庫本を読んでみたのだが、なんとも後味の悪い本だった。
 最初から最後までバカバカしくて荒唐無稽であれば、エンターテインメントとしてこういうのもアリかな、と思えたのだろうが、なまじ基本的な設定や時代考証などが比較的しっかりしていて、主人公の湯長谷藩主が心優しく領民想い、弱者想いの人物として具体的に細かく描かれているために、最後のあたりの展開に首を傾げざるをえないのである。

 さまざまな障害を乗り越え、なんとか刻限内に江戸までたどり着いた主人公の政醇だが、江戸城の入口で敵の差し向けた軍勢に取り囲まれてしまう。
 そこで、敵と大立ち回りが繰り広げられることになるのだが、心優しいはずの政醇をはじめ、家臣たちまでもが、なんのためらいもなく敵の手足や首を刎ね飛ばしまくり、大槍で敵を串刺しにしまくるのである。
 やらなければ自分たちがやられてしまう、というのは理解できるが、それにしても凄まじいほどの大量虐殺なのである。
 しかも戦いを続け、敵を殺めていくうちに、気分が高揚して楽しくなってきたと家臣が述べる描写まであるのには、空恐ろしさを覚える。
 弱いものを守るため(という名目)、自分の愛する人たちを守るため(という名目)なら、自分たちと敵対する者を殺しまくってもOK!罪悪感などまるでナシ!なのである。
 これでは百田尚樹の『永遠の0』とさして変わらないではないか。

 本とテレビ番組を比較するのは筋違いかもしれないが、同じ時代劇である『暴れん坊将軍』は、ツッコミどころ満載のストーリーやコミカルな演出もあって、非常に優れたエンターテインメントだと私は評価しているのだが、それは大立ち回りでも基本的には峰打ちであって、無駄な殺生はしていないというところも大きく貢献しているように思う。
 対して『超高速!参勤交代』は、後半にいたるまでの牧歌的な描写や、家臣の相馬の機転などのコミカルな描写が、クライマックスで描かれる大量虐殺シーンを違和感を持って浮き立たせる結果となってしまってはいないだろうか。
 映画の脚本となることを前提とした筋書きであることから、ある程度の大掛かりな「見せ場」が必要なことは理解できるが、物語全体での整合性を図ったうえで、もうすこし違ったかたちにできなかったのか?
 いま世の中は、対テロの名目で、力による他者の捻じ伏せを当然視する風潮が強いが、この『超高速!参勤交代』も、そういった風潮を煽る一助にならなければよいが……





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# by tima-formosa | 2015-12-28 20:24
 先週の土曜日、paris matchのライブ鑑賞のために上京した。
 今年で3年連続となったが、去年までの中央区銀座から、今年は会場が目黒区の恵比寿ガーデンホールに変わった。
 ホールは恵比寿ガーデンと呼ばれるところにあり、クリスマス間近とあって、一帯にはきらびやかに電飾が施されている。
 銀座だ恵比寿だと、paris matchのライブは小洒落たところばかりで開催される。そのうえクリスマスは私の人生にはなんの関係もないイベントであり、私のようなしょぼい中年のおっさんにして田舎者のおのぼりさんなど、この場には場違い以外の何物でもないのだが、私以外の多くの人々は、電飾や周辺に漂うムードとやらを楽しんでいる様子だ。
 世相は確実に昭和20年以前のような方向に向かって大逆走を続けているさなかだが、それでもこうして表面上は平和に見える。
 安倍首相をはじめとする極右たちの思惑どおり、日本が米国などの戦争に協力して、挙句に報復を受けて、見た目の平和さえも失われてしまわないことを願うばかりである。

 ライブが始まってしばらくしてから、私は携帯電話のメモ機能を使って、セットリストを記録しはじめた。
 もちろん携帯電話は開演前のアナウンスにしたがってマナーモードにしてある。
 液晶画面のバックライトで周囲の観客に迷惑が及ばないように、画面は手で隠しながらブラインドタッチで、しかも使っている時間が極力短くなるように、自分だけにわかる略語で手短に入力していた。
 1曲の間で入力にかかる時間は長くても20~30秒程度。そうして4曲目の入力をしていたときのことである。
 右隣の観客が肘で私を小突きながら「外でやりなさいよ」と言ってきたのである。
 詳細な検証は後述するが、私の行為のどこかに違法性やルール違反があっただろうか?
 仮に違法性があるならば、即座にやめなければならないことである。
 また、違法性がなくても、これ以上お互いに嫌な思いをしないためにも、諍いの元となる行動は慎んだほうがいいのかもしれない。
 というわけで、私は後者の理由により、セットリストの記録をとりやめた。
 安倍首相をはじめとする極右たちを反面教師として、自分で妥協できる範囲であれば、周囲の人や国と無駄に波風を立てるようなことは避けるのが賢明な生き方である。

 さて、私の行為についての違法性の検証である。
 まず、私がしていたのは携帯電話のメモ機能を使ってのセットリストの記録。
 たとえば「Passion8 Groove」であれば「8」といった感じに略語で入力する。
 もしこれが音声入力で「はち」と言って録音していたとしたら、それがたとえ自分の言葉であっても、録音行為自体が会場の禁止事項にあたり、ルール違反であるから隣席の注意は妥当である。
 ところが、事前アナウンスでは「携帯電話は、あらかじめマナーモードにするか電源をお切りいただくよう、ご協力を(以下略)」とのことで、そのどちらかの選択ということは、音が出てしまうことこそが問題なのであって、使用そのものは禁止事項とはされていないと解釈してよいだろう。
 つまり、通話は音声によって物理的にライブ興業を阻害するのでNGだが、メモ機能の使用では音声の問題は関係せず、ルール違反ではない。
 もしメモ機能の使用までNGなのだとしたら、紙と筆記具を使用したメモも、単なる使用器具の違いなのだからNGとしなければ整合性を欠くことになり、それは通常考えられることではない。それすらNGなのだとしたら、音楽誌のライブリポートなど成り立たないだろう。
 というわけで、理詰めで検証していけば私の行為に違法性はなく、ルール違反でもない。
 もちろん私は事前にそこまで考えたうえでセットリストの記録をしていたのだが、現実には私は隣席から小突かれたうえで注意されてしまった。これをどのように解釈すべきであろうか?
 単純に「マナーの問題」と考えてしまうと、これは問題が非常に拡散し、かつ曖昧になってしまう。
 マナーというのは、ある意味ローカルルールに近いところがあり、人や地域、さらには立場によって捉え方や適用に差異が生じるからだ。

 かつて、東京の港区元麻布にあるアバンティというイタリアンレストランのウェイティングバーに、スタン・マーロウというバーテンダーがいた。
 現在は祖国のアメリカに帰ってしまったスタンだが、その彼が言った言葉に「ローカルルールはルールではない」というものがある。
 この言葉を聞いた常連客の大学教授は「けだし名言」だと評したが、私もそう思ったものだ。
 実はこのときのシチュエーションも、今回の私と同じく携帯電話の使用に関わるものだった。
 常連の間では携帯電話の使用がNGという暗黙の了解があるアバンティの店内で、友人との待ち合わせのために初めて来店した客が通話を始めたところ、常連客から注意されてしまった。
 それに対して初来店の客は「そんなルールはどこにも書いてないでしょう」と反論。そこで常連客は「そういうローカルルールなんだよ」と応戦し、スタンにも同意を求めたところ「どうぞお話しください。ローカルルールはルールではありませんから」と発言したのである。
 携帯電話というのは、登場した当初から公共の場所での使用に関して悪者扱いされがちなところがあったが、そういう扱いについて、感情的な意見は多く聞かれても、しっかりと科学的に理論立てて検証された話をほとんど聞いたことがない。結局いつも「マナーだから」でうやむやにされてしまって終わりだ。
 私の場合など、会話どころか画面を隠しての、メモとしての使用である。
 その程度のことを隣席の人物から「マナー違反」と捉えられたのだとしても、それは法律やルールではなく、そう思った隣席の人物の中での「不快感」が基準であろう。それはまさしく彼の中でしか通用しないローカルルールそのものである。
 明文化されない人の感情に他人が強制的に律されるというのは非常に恐ろしいことで、これは憲法19条に規定される思想信条の自由を明白に侵害している。
 もちろん憲法19条を持ち出すからには、同時に12条の「公共の福祉に反しない」ことが求められる。
 法解釈としての「公共の福祉に反しない」というのは、「他人の人権を侵害しない」ということである。
 ライブ会場でのメモ行為が他人の人権を侵害するものではないことは明白だろう。

 たかがメモ行為への注意だけで、大仰に憲法まで持ち出して……などと考えてはいけない。
 いまや政府与党でさえもが、堂々と憲法違反の法案を立法化させてしまうご時世である。
 身近なちいさな出来事であっても、誰にでもはっきりとわかる基準を基に考える癖をつけないと、知らないうちに流されてとんでもないところに連れていかれてしまうおそれがある。
 私だって、できることなら法律だのなんだの考えずに過ごしたいと思っているのだ。
 けれども、どんどん狭量になっていく世間の流れがそうさせてはくれない。せめてもの自己防衛のために、ものごとを理詰めで考えるようにしなければならないのだ。

 ところで、今回のライブ会場で初めて公表された来年のライブの情報というものが、これまた曲者であった。
 なんと特別先行予約の受付開始日時が、今回のライブの真っ最中である12月19日の20時だったのである。
 こんな特別先行予約をするような熱心なファンは、もちろんこの日のライブにも来ているのだろうから、ライブの真っ最中にスマートフォンから予約を入れた人も会場には多くいたものと思われる。
 いや、想像ではなく実際に予約受付開始時刻に会場内から予約をした者がいることを、とあるところで私は確認している。
 その人の証言では、ちょうどその時にはparis matchの代表曲のひとつである「太陽の接吻」が演奏されている最中であり、ライブ鑑賞に予約にと、大わらわだったということだ。
 もちろんその行為自体は禁止事項ではないのだが、スマートフォンではバックライトの光が漏れないように画面を隠すということもできないし、お金に関わることでもあるから、認証やら何やらで時間もかかるしで、もはや私のセットリスト記録どころの騒ぎではないだろう。
 私の右隣の人物が、もしそうした「ライブ中のライブ予約」をする人の隣に座っていたとしたら、それはもう発狂するほどの許せない状況ではないかと思うのだが、いかがだろうか?
 私が心配してしまうのは、別のどこかで同じようなことがあったときに、彼が彼の中でのローカルルールを基に注意をしてしまった結果、たまたま相手が本気の理論武装で論争を挑んできてしまったら困るのではないか、ということだ。
 もしそんなことがあったら、もちろん彼は論争で負けることになるのだが、それだけでなく、余計なことをしたばかりに騒ぎになって、周りにまで迷惑が及ぶことにもなってしまうだろう。

 自分の信ずる「マナー」は、単なる自分だけのローカルルールなのではないか?
 常にそうした自分への問いを忘れずに、徒に他人の権利を侵害しないよう心掛けたいものだと、隣席の人の行為によって再認識させられた夜であった。





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# by tima-formosa | 2015-12-26 07:02
 私には友と呼べる人がおらず、知り合いも極端に少ないのだが、それでも人に電話番号を口伝しなければならない機会は結構ある。そんなとき、私は人知れず葛藤している。
 「090-」と携帯電話の番号を伝えるとき、ここは「ゼロきゅうゼロ」と言うべきか、それとも「れいきゅうれい」と言ってもいいのか、ということなのである。
 もちろん本来の正解は後者の「れいきゅうれい」である。
 「0」の読みは日本語では「れい」であり、ほかの数字を日本語で読む以上は、「0」も「れい」と言うのが筋だと私は思っているし、実際、NHKのニュースなどで電話番号を伝えるときは、アナウンサーもそのように読んでいる。
 ところが世間一般では「0=ゼロ」が広く浸透しているようで、有名なCMソングにも「ゼロいちにいゼロ~」というものがある。
 通販番組でも、電話番号の案内は聞いたかぎりではほぼ「ゼロ」読みのようで、また、いろいろな問い合わせで電話番号が案内されるときにも、ほとんどが「ゼロ」読みなのである。
 「0」が「ゼロ」なら「1」は「ワン」で「2」は「ツー(トゥー)」だろう!?と思うのだが、そんな読み方をしているのを聞いたことは一度もない。

 かような次第で「0=ゼロ」が大勢を占めている状況を慮って、私も不本意ながら「ゼロきゅうゼロ」と伝えるようにしてしまっている(日和っている)のだが、そのように自分の心を偽ってまで周りに合わせていることへの自己嫌悪から、一度だけ「れいきゅうれい」で伝えたことがある。
 しかし、確認のためにオペレーターが復唱したのは「ゼロきゅうゼロ」であった。
 蟷螂の斧、か……。それ以降、私はささやかな抵抗をあきらめた。
 自分らしく生きるというのもなかなか難しいものだ。

 断わっておくが、以上はあくまでも「ここが日本語ならこっちも日本語でしょう?」という「流れ」にこだわったうえでのことであり、断じて「日本語にこだわった」結果ではない。
 最近では、「昔ながら」の日本語の良さを見直して、日本人としての心を云々…とのたまう輩も多いようだが、言葉というものは時代によって変化していくものであって、使われなくなった言葉には、使われなくなっただけの理由があるはずである。
 そういった淘汰された古いものを利用して、日本人としてのアイデンティティだのといった妙なことに利用しようという風潮には首肯できない。
 「ゼロきゅうゼロ」についても、私は言葉の流れとして違和感を感じているけれども、時代の変化につれて生まれた新しい日本語なのだろうと納得しようと思う。



 
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# by tima-formosa | 2015-12-18 05:48
 9月末から10月末までの残業時間は110時間。
 私の勤め先では30分未満の「端数」は切り捨てられてしまうので(もちろん違法)、実際にはもうすこし多かったはずだ。
 出勤した当日に自宅まで戻れた日は片手で数えられるほどで、ほぼ毎日、日をまたいでの帰宅だった。
 未明の3時半まで仕事をして、帰宅してから1時間とすこしだけ眠って(というより仮眠して)、またすぐ8時には会社に戻ったという日もあった。
 こういう日々が続けば、当然私生活にも影響が及ぶ。
 日常の用事は、すべて週末の休みの日だけで済ませなければならない。
 その休みの日も、実際には何日か出勤している。
 現在の受注状況から類推すると、こういった状態が来年の4月までは続くことになっている。
 生活不必需品である趣味は、完全に後回しとなる。

 ここ1か月ほど、ほぼピアノには触れていない。
 練習していないから、教室にもおいそれと行くことができない。
 CUBASEにいたっては、先月頭に何も準備できていないのに無理して受講したときに起動させただけで、それ以外では一度も起動させていない。
 深夜の1時2時に帰宅してから、ピアノの鍵盤をガチャガチャさせるわけにはいかない。
 根を詰める作業の必要なDTMを帰宅してからしていたら、わずかな睡眠時間さえなくなってしまう。
 こういう状態で、いつまでも教室の生徒でいるわけにはいかない。
 特に、事前の仕込みに時間がかかるDTM教室を受講するのは無理だ。

 結局、DTM教室は退会することにした。
 受講日の調整で先生には迷惑をかけてしまったが、そのうえで決まった受講日にさえ通えなかったのだから、辞めるよりどうしようもないだろう。
 残りはピアノ教室の方だ。
 こちらはチケット制のため、チケットの有効期限が切れてから数か月で自動的に退会ということになる。
 そうなってしまうまでに、どれだけの練習時間が取れて、教室に行くことができるのか?
 現状では見通しが立たない。

 人並みに計画的な生活を送ることもできない状況に陥っている私だが、これも運命により決まっていたことなのだろう。
 そういうふうにできている。
 これからも私はすべての状況をそのまま受け入れて息をしていく。




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# by tima-formosa | 2015-11-09 06:50
 すすき野原の写真を撮るために稲取の細野高原へ行ってきた。
 国道414号で河津まで出て、国道135号を伊東方面にすこし戻ると、道端に「←稲取細野高原」という立て看板が置かれていたので左折。
 ところどころに置かれている立て看板に導かれて進むのだが、とても観光地に通じているとは思えない、農道や林道のような山中の細道だ。
 最後までそんな心細い道のまま、第2駐車場までたどり着いた。「知られざる秘境」と謳って宣伝しているようだが、たしかに秘境ではある。
 事前の情報では、イベント期間終了の11月上旬までは、第2駐車場から徒歩あるいはシャトルタクシーに乗り換えて先へ行くことになるはずだったのだが、誘導案内していた人の話によると、今日はイベントが中止になったので、奥までそのまま行けるのだという。
 細野高原への入山にはお金が取られるという案内を見てきたのだが、受付前では止められることもなくそのまま通過。
 よくわからないのだが、入山料というのは一帯の維持管理費用の負担という意味ではなく、イベント開催諸経費の負担という意味だったのだろうか。

 第1駐車場に車を停めて、眺めのいいところを探して歩く。
 出発が遅かったので、到着時にはすでに15時を回っていた。あまり時間がない。
 太陽はすでに山の稜線に近づいている。
 すすきといえば、私は夕方の逆光でこそ魅力が最大限になると思っているので、タイミングとしては最高といえなくもなかったのだが、なにしろ初めて来た場所で、撮影ポイントなどもまったくわからない。
 本来なら、もっと早くに到着して事前にいい場所を見極めておいてから、撮影に最適な時間まで待つべきだったのだろうが、連日の午前様帰宅で疲れ果てていて、午前いっぱいダラダラしてしまったのだった。
 とはいえ、撮影という目的を離れれば、いままさに見ごろの時刻を迎えたすすき野原が見渡せる広々とした景観はなかなかのものだ。
 黄色味の強くなった日の光を受けて、金色に輝きながら波打つすすきの穂は、尾花栗毛のサラブレッドが群れをなして走っているかのようにも見える。
 すこし先の山の稜線には巨大な風車が並んでいて、風を受けて結構な速度で回っている。
 「コーッ」という低いうなり音も聞こえてくる。
 見渡すかぎりのすすき野原に、超然と立ち並ぶ風車。
 ひと気もなく木も少ない、ある意味荒涼ともいえるようなところに、巨大な人工物が無機質に回転を続ける光景に、不条理世界に迷い込んだような気分にさせられる。
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 結局いい写真は撮れなかった。
 才能(センス)と腕がないのが最大の理由であって、これはもうどうしようもないものだ。
 才能のない私には、数をこなして偶然の大当たりに期待するしかない。
 誰にでも狙っていい写真が撮れるのなら、世にプロカメラマンなどという職業は必要なくなってしまう。




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# by tima-formosa | 2015-10-25 07:20
 「村上春樹がノーベル文学賞受賞をまた逃した」という「ニュース」が、今年もまた瞬間的に沸き立って、瞬時に消え去っていった。
 私は一度も彼の作品を読んだことはないし、それどころか彼の作品のあらすじさえ1作も知らないので、彼の作品の中身について論じることはできないが、世界でもっとも有名な日本人作家のひとりであり、その著作の評価も高く、「世間では受賞が有力視されている」という客観的状況が事実であることは認めないわけにはいかない。
 ただ、私が認めるのはあくまでも「世間でどのように言われているか」という客観的状況についてのみであって、その状況が、厳然たる事実に裏付けられたものであるかどうかは、また別の話になってくる。
 どういうことかというと、これだけ毎年「受賞が有力視され」ていながら、いつまでたっても受賞がならないとなると、そもそも文学賞の候補者としてノミネートされていることから疑わなければならないということだ。
 考えてみれば、有名な直木三十五賞の場合は、候補作品が事前に公表されていて、確実にその中から選定されている。
 ところが、ノーベル文学賞の場合、「○○さんがノミネートされました」という話をいままで聞いたことがない。
 普通に考えて、誰かがなにかの賞を受賞する可能性を論じる場合、まずは候補者としてノミネートされていなければ話にならないはずで、それはもっとも大事なことのはずなのだが、世間での前評判は、あくまでも風評にのみ依って立っていなかったか?ということだ。

 そう思っていたところ、やはりというかなんというか、そのあたりの事実がネットニュースを読んで明らかになった。
 ノーベル文学賞の候補者というのは、その年の受賞者発表から50年後にならないと公表されないのだそうだ。
 つまり、今年も去年もおととしもさらにその前の年もさらにその(以下略)村上春樹がノーベル文学賞候補としてノミネートされていたのかどうかは、選定している人以外は50年待たなければ知ることができないということだ。
 どこの誰がノミネートされているのかすらわからないのに、ファンはともかく、どこかの自称「事情通」を含めた多くの人々が、勝手に受賞するかもしれないと空騒ぎしていたということになる。
 村上春樹はノミネートすらされていなかったが、代わりに(?)あの百田尚樹がノミネートされていた!などというトンデモな事実が明かされるという可能性もないことはないことはないのかもしれないが(いや、絶対にありえないが)、ともかくすべては50年経たなければわからないのだ。
 これではとんだ笑い話ではないか。
 50年後といえば、私は確実に死んでいるだろう(というか死んでいたい。こんな世の中に長生きなどしたくない)。だから、私は一生かかっても村上春樹がノミネートされていたかどうかさえ知ることができないというわけである。

 あるもののファンが、その信奉する対象にハマってしまったばかりに見境なく突っ走ってしまうということは、ままあることだ。
 それについては、無関係の者に実害を及ぼさない限りにおいて構わないと思うのだが、そういった「暴走」を、根拠も薄弱なのにニュースとして一般に広めてしまう風潮というのは、そもそもどうなのか?と思う。
 世の中には、とても大事なことなのに、意図的に取捨されて報道されないことがたくさんある。
 その一方で、騒ぐ必要も根拠もない「ニュース」が流されて、それが「ニュースで見たから」という理由にならない理由によって、批評眼のない多数の人々に重要なことであるとして受け止められてしまう。
 この国の病理の根源のもっとも重大なもののひとつだろう。

 ところで、村上春樹の作品は面白いのだろうか?
 とりあえず、話題ばかりが先行している時点で内容にまでは興味を惹かれないし、ほかに読みたい作品がいくらでもあるので、手に取ることもしていないのだが。
 いまのままだと、もし読むことになるとしても、優先順位からいって後回しも後回し、それこそ50年くらい経たないと読むことはないのかもしれない。
 そのとき私はすでに死んでいるわけだが。
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# by tima-formosa | 2015-10-10 07:46
 私が唯一定期的に見ているTV番組『ピエール瀧のしょんないTV』のイベント展が開催されているということで、会場の「すんぷ夢ひろば」へ行ってきた。
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 地元在住とはいえ、ここに来るのは初めてである。
 なぜここが会場なのかといえば、番組内でいろいろな企画を行う多目的スペースである「しょんない秘密基地」が、場所を提供していた企業の都合で移転せざるを得なくなり、その移転先となったのが「すんぷ夢広場」の遊休施設となっていた建物群の一部だからである。
 秘密基地なのに客を入れてしまっていいのか?という疑問を持つ人もいるかもしれないが、移転に際して「しょんない秘密基地」は「しょんないランド」に改名されており、もはや秘密ではなくなっているので構わないのだと思われる。

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 それにしても真っ先に感じるのは、人の少なさだ。この写真だって、わざと人がいないタイミングを見計らって撮っているわけではなく、本当に視界に人がいない状況が結構あるのだ。
 建ち並ぶなんとなく江戸時代風の建造物群の規模に反して、あまりにも閑散としすぎている。
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 人の気配の消えた白昼の町家が並ぶさまに、私は藤沢周平の「麦屋町昼下がり」の決闘シーンを想起した。
 しかし人がいないのも道理で、これら建造物のほとんどは有効活用されておらず、関係者以外は中に入ることもできなくなっているものばかりだ。
 そもそもここは「日光江戸村」の小規模なものとでもいうべきテーマパークだったのだが、施設の所在地が採算がとれる集客など到底望めない辺鄙な場所のため(私は創業オーナーの正気を疑っている)、開設からそう長く経たないうちに一旦は休業となり、運営会社が変わって、劇場などの温泉施設以外の要素をほとんど休止して営業を再開したという経緯がある。
 そんな空き物件だらけの施設だからこそ家賃無料が条件の「しょんない秘密基地」の移転先にできたわけで、提供した会場側としても、こういったイベントが開かれれば、ついでにメイン施設の温泉に立ち寄ってくれる人も出てくることを当然期待していることだろう。

 とりあえず温泉はおいておいて、なにはともあれ「しょんないTV展」である。
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 素寒貧とした入口を入ると、ゲームコーナー。私の若かった頃のゲームセンターの雰囲気に近い。
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 ずらりと並ぶファミコンソフト(当時はみんな「カセット」と呼んでいたが)。「ちりファミ交換」の企画で集められたものだ。
 バッテリーバックアップ式のものは、もはやゴミ同然と思われるが、資料的価値だけはあるかもしれない。
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 ピエール瀧を描いた広瀬アナウンサーによる油絵作品。この作品が出てきた回は未見。
 私は1年間だけとはいえ美術部に在籍していたにもかかわらず、美術に関してまったく造詣がないので、専門家のような評価はできないのだが、単純に素人目には「わりと上手いな」と思える出来のように見える。
 まったくの素人がここまで油絵を描けるとは思えないのだが、実際のところどうなのだろうか?
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 対してこちらのプラモデルは、塗装をしていないのはもちろん、バリ取りもおざなり、はみ出した接着剤もそのままと、完全な素人の素組みレベルだ。
 しかし、いまどきこんな若い女性がプラモデル作りを実際に趣味のひとつとして継続しているというのは、非常に貴重なことで、プラモデルに近い部類の趣味を持つ私のような「同類」としても歓迎すべきことである。
 facebookの投稿によると、彼女が最近作った作品では「スミ入れ」処理が施されたということから、徐々に腕も上がっているようだ。
 もっとも、超本格的な出来のものを作れるようになってしまったら、それはそれで広瀬アナらしくないようにも感じるが。
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 もはや何が何だかさっぱりわからない……
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 しょんないランド居間兼会議室兼応接室?
 この先にも若干の展示が続いて、ささやかな物販コーナーも設けられている。
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 プロレスに興味のない私には、マスクマンの面白さについてはいまいち……。というわけで、このマスクが出てきた回は未見。
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 これは本気で怖い。
 広瀬アナによる「バロンドール」という言葉の解釈を忠実に実体化したもの。
 ちなみに、私も「バロンドール」の意味は知らない。

 だいたいこんな感じで、ツボにはまるところがあれば面白いが、そうでなければまったく面白くないであろう展示だった。
 まあそれは番組自体の性質とまったく同じものであり、そういう意味では「らしい」展示でもある。
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 最後の最後に出口でヤラれた。

 見終わってから、スポンサーへのお布施という意味もこめて、温泉施設へ寄った。
 なかなかいい感じの温泉ではあったが、ところどころにB級施設特有のヤレ感が見受けられる。
 「しょんないランド」のスポンサーとしては似つかわしいかな、とも思える。
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# by tima-formosa | 2015-08-24 05:49
 代休を使って三島へ行ってきた。
 去年の夏、新海誠展のために大岡信ことば館へ行って以来だろうか。
 今回は19年ぶりの復活となったKRYZLER&KOMPANY(クライズラー&カンパニー、以下「K&K」)のコンサートを観るのが目的である。
 代休など使わなくても、会社を定時に出てそのまま駆けつければ間に合わないこともなかったのだが、それではあまりに慌ただしくなるし、それよりなにより、できることなら仕事などしたくはないと常に思っているので、丸々一日休むことにした。

 午前中はのんびり支度して、午後から鈍行で三島へ向かった。
 1時間を超える距離で東海道線の鈍行を使うのも久しぶりのことだ。
 かつては長崎県や北海道まで鈍行を乗り継いで行ったりしたものだが、いまやそんな気力はなく、マリにゃんのお誕生日会のために伊東へ行く程度のことでさえ、熱海まで新幹線を使ってしまう体たらくだ。

 コンサートの開演までは余裕があるので、市内を散歩する。
 三島は、富士山の周辺に降って地下に浸透した雨水が、年月を経て湧出する泉が数多く存在する水の町である。
 そういった泉から小さな川が町の中をいくつか流れ、それに沿って遊歩道が作られている。
 そのうちのひとつを歩いて、まずは三嶋大社へ行ってみた。
 いままで何度も三島に来ていながら、三嶋大社を訪れたことは一度もなかった。
 入口から拝殿まで進んでみたが、なにか神社にあるべき荘厳さというようなものがあまり感じられない。
 伊豆国一の宮ということは、社格としては相当な上位の神社だと思われるが、そのために規模が大きく面積も広いため、開けっ広げな感じがするのが、荘厳さを欠く原因だろう。
 ほとんど素通りにちかい形で出口に向かう途中、DonDokoDonの山口智充とすれ違った。
 神社の神職の格好をしていたので、おそらくドラマの撮影だろう。露出している両手と顔が異様に黒い。
 さらに進むと、なにやら大勢の人々で賑わっている一角がある。テレビカメラや照明を手にした人たちがいて、そのほかいろいろな機材も積まれていて、警備員まで配備されている。
 やはりドラマの撮影のようだが、カメラの前にいる浴衣姿の若い出演者たちは、誰が誰だかさっぱりわからない。
 といっても、どれだけ有名な人であろうとも、芸能人に興味がなく、テレビをほとんど見ることもない私では、名前を聞かされたところで「ふーん」であろう。
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 そのまま歩いて佐野美術館前から源兵衛川沿いの遊歩道へ。
 三島市の中心街を貫流していながら、別世界のような自然と静けさだ。
 平日の夕方ではあるが、散歩している人や観光客とおぼしき人ともすれ違った。
 そういえば、流れはきれいに見えるが、まったく魚影が見られない。私が見落としていただけかもしれないが、不思議に感じる。

 開場時間が近づいたので、文化会館前まで行ってみると、そこそこ人が集まりはじめている。
 そういった人々を見ていると、平均年齢がかなり高そうなことに気づく。
 どう低く見積もっても平均55歳、普通に見て60歳くらいだろう。中には見た目90歳以上にしか見えない老婆までいる。
 私の知るK&Kの主要ファン層は、当時のメンバーとそれほど違わない年齢の女性だったはずだ。
 それがそのままスライドしたと仮定すれば、現在では40代となっている女性ということになる。
 しかし実際にはそれより10歳以上の上乗せが発生している印象だ。
 この状況を分析してみると、K&Kのフロントマンが葉加瀬太郎で、その担当楽器がヴァイオリンであることに一因がありそうだ。
 K&Kは一定の成功をおさめて解散したが、老若男女誰もがよく知る存在というほどではなかった。
 葉加瀬太郎の知名度も現在ほどではなく、彼が結婚したときの報道も「高田万由子が結婚~ヴァイオリニストの葉加瀬太郎と」といった見出しがついたほどで、その報道のされ方を見て私は「逆だ、逆!」と思ったものだが、世間の印象というものは私のそれとは違うのだということを思い知らされ、芸能界における「格」というものについて考えさせられたものだった。
 それが一転したのは、やはり解散後に情熱大陸のテーマ曲を手掛け、イマージュという企画CDがヒットしたことによるものが大きいだろう。
 K&K当時の人気を大きく越えて、いまや日本でもっとも有名なヴァイオリニストのひとりとなった葉加瀬太郎には、もはや「元K&K」という肩書きは必要なくなっており、ある意味、K&K時代からは断絶しているような印象すらある。
 そういった状況から、葉加瀬太郎は知っていてもK&Kを知らないという人は大勢おり(今回の客層の多くはそういった人だろう)、K&Kの音楽性がどういうものであったかということも、昔からのコアファン以外に知る者は少ないと思われる。
 加えて、彼の担当楽器のヴァイオリンは、どれだけポップスなどに取り入れられていようとも、いまだにクラシックのための楽器という印象が強く、単純にヴァイオリニストが来るというだけで「ああ、クラシックのコンサートなんだ」と思ってしまうような人も多いだろう。
 そう考えれば、今回集まっている客層と、クラシックのコンサートの客層が似通っているのは納得できる。
 しかし、60歳以上の年寄りが、ましてや90歳以上とも思われる老婆が、果たして「あの」K&Kのコンサートを無事に観ることができるのか、そこは少し気になってしまうところではある。
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 三島公演のチケットは完売とのことである。
 実は、全国9か所10公演のうち、最初に売り切れたのは三島公演らしい。そして、三島公演は三島市民文化会館の自主開催、つまり、会場の方からK&Kに来てくださいとオファーを出して実現したものだ。
 数十万人以上の人口を抱える町ばかりが会場として並ぶなか、小ぶりな町である三島がポツンと存在しているのは、鍵盤担当の斉藤恒芳が修善寺出身ということもあって、ほぼ地元といっていい三島が誘致したものと考えられる。
 呼んだからには満席にしなければ申し訳ないと思ったのだろう、相当がんばって老若男女問わず売り込んだのではないだろうか。それも客の年齢層を引き上げた原因になっていそうだ。

 開演時間が迫るにしたがって、比較的若い人たちが増えてきた。年齢的にもK&K時代からのスライド組と重なる。やはり女性が多い。
 そして、ちいさなこどもを連れた母親、という客もちらほら目につく。こどもにヴァイオリンを習わせている親子ではないだろうか。
 やがて客電が落ち、スクリーンに映像が流された。クラシックの作曲家の年表である。
 その中にK&Kの過去の映像も織り交ぜられている。
 映像の終了と同時に、アルバムに新規カヴァーで収録された「ブライダル・コーラス」からコンサートは始まった。

 感無量だった。
 じつは、当時からファンだったとはいえ、K&Kのコンサートはビデオでしか見たことがなく、実際に足を運んだのはこれが初めてなのだ。
 それに、19年前の解散コンサートには行こうと思えば行けたのに、行っていないのである。
 プレイガイドでまだチケットが残っているのを確認までしていて、一時は行くつもりにもなったのだが、結局は「いろいろめんどくさいから」というしょうもない理由でやめてしまったのだった。
 その後、当たり前だが猛烈な後悔の念が押し寄せてきて、行きたいと思ったライヴにはなるべく行くようにするという現在の方針を確立する原因にもなった。
 葉加瀬太郎はいろいろなところで頻繁に見ることができるが、裏方仕事がメインになっていた竹下欣伸や斉藤恒芳が、舞台の上で主役のひとりとなっている姿を見ることができる日がふたたび来るなどと、つい半年前には考えることもできなかった。
 FNS歌謡祭でベースを弾いている人が2秒だけアップで映って、「あ、タケさんだ!」と、まるで絶滅危惧種の昆虫を見つけたように驚いていた4年前が懐かしく感じられる。
 この日、ステージ上のタケさんやツネさんは、2秒どころか2時間以上連続で視界に入りっぱなしだった。
 それは当たり前のことだが、それが当たり前のことになったのは、やはり奇跡のように思う。

 セットリストは再結成後に発売された「NEW WORLD」からの曲がメインで、過去に演奏したことのあるアレンジ曲は「交響曲第5BURN 炎のベートーベン」だけだった。
 他にはアコースティックコーナーで「前奏曲とアレグロ」「愛の悲しみ」「タイスの瞑想曲」が演奏された。
 メンバーオリジナル曲は「ヴィーナス・ラヴ」だけだった。「燕の島」や「悲しい王様」など、クラシックの名曲とされる曲にも劣らない珠玉のオリジナルがあるだけに、往年のファンとしては少々淋しく感じるところだ。
 今回の復活第一弾ではクラシックのカヴァーを前面に押し出しているので(「ヴィーナス・ラヴ」は特別枠のようだ)仕方ないが、今後に期待したいところだ。
 といっても、今後も活動を継続するかどうかはいまだ不明らしい。
 葉加瀬は継続を熱望しているようだが、それぞれがあまりにも違う方面で活動しているので、難しい気がするのだが……

 心配していた年配の人たちの動向だが、ロビーで見かけた見た目年齢90歳の老婆が偶然にも私の少し前の席だったので、ときどき様子をうかがっていた。
 後半の「強制立ち見時間」では何も見えなくなってしまうので立たざるを得ず、しかし立っても身長の問題で結局何も見えないので、気の毒だった。
 どうせ同じ何も見えないのなら座ってしまえばいいと思うのだが、葉加瀬の「椅子はないものと思ってください」という言葉を律儀に守っていたようだ。
 偶然が重なって、帰りにもこの老婆の姿を見かけたのだが、後半の立ちっぱなしが堪えたのか、会場正面の階段を下りるのさえつらそうにしていて、同行の女性が手助けしていた。
 やはりK&Kのコンサートは、あまりに高齢の人には難しい面があるようだ。

 会場から駅への帰り道は緩やかな登りだ。
 そこを大勢の人たちと駅へと向かう。やはり高齢の人が多い。
 私はしょぼい中年のおっさんだが、そんな私でさえこの中では若造に分類されてしまうだろう。
 坂の途中にはCDの店がある。
 店前の歩道に手製の台を置いて、演歌や歌謡曲のCDを並べている。大きな音量で知らない演歌が流されている。
 コンサート帰りの人をターゲットにしているのかもしれないが、誰ひとり立ち止まる者はいない。
 一般に演歌や歌謡曲の主要顧客は高齢層だが、同じ高めの年齢層でも、葉加瀬太郎に興味を持つような人は演歌や歌謡曲には興味を持たないらしい。
 人の音楽の好みというものは、なかなか奥が深い。





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# by tima-formosa | 2015-05-31 01:31
 地元オーケストラのコンサートを聴きに行った。
 演目はすべてモーツァルト作曲で、「皇帝ティートの慈悲」序曲(K.621)、ヴァイオリン協奏曲第5番イ長調(K.219)、交響曲第41番ハ長調(K.551)であった。
 こんなことを書いているが、私はクラシックのことはさっぱりわからない。
 いや、他のジャンルの音楽のこともよくわかっていないのだが、とりわけクラシックについては聴き始めたばかりのド素人である。
 上記曲名も、パンフレットからのほぼ丸写しである。
 したがって、客演ヴァイオリン奏者のアンコールソロで演奏された曲や、最後のアンコール曲についてはタイトルがわからない。
 しかし、そんなド素人でも、はっきり「これは頭抜けている、素晴らしい」と感じることのできる演奏と音を聴くことができた。
 客演のチャン・ユジンである。

 2曲目のヴァイオリン協奏曲で登場したチャン・ユジン。
 演奏を始めた途端に、その音の素晴らしさに目を見張らされる。
 普段聴きなれているヴァイオリンの音とは明らかに別物の音だ。
 高域から低域まで、倍音も含めて様々な音成分が含まれているのがわかるが、それらが喧嘩することなくまとまって、瑞々しく華やかできらびやかでありながら、決して耳障りということはなく、それどころか艶やかでしっとりとした落ち着きのようなものさえ感じさせられる。
 こういう音をなんといって表せばいいのかわからないが、私は「豊麗」という言葉が思い浮かんだ。
 なんとも語彙がなくて情けないが、とにかく「豊かな音」であったのは間違いない。

 彼女が使っているヴァイオリンは、ストラディバリの「レインヴィル」である。
 ストラディバリといえば、よく1億円以上する楽器としてテレビなどでも紹介されるが、テレビで聴くのと生で聴くのとでは大違いだ。
 テレビで安物のヴァイオリンとの音の違いを聴き比べるような企画でも、安物とは歴然と違うことはわかるのだが、オーケストラの中で、他の演奏者たちの音と混ざっても、はっきりと違うのがわかるのである。
 オーケストラの人たちのヴァイオリンだって、決して安物というわけではないはずで、下手をすると家が買えてしまうほどの値段のものの可能性もある。
 それを差し引いてなお、別格といってもいい違いが感じられるのである。
 「主役」として、演奏のニュアンスを他のヴァイオリン奏者と変えているために際立って聴こえるということもあるのだろうから、一概に楽器の違いだけで論じることはできないにしても、同じヴァイオリンという楽器でありながら、どうしてここまで音の違いとして表れるのだろうか?まったく不思議でならない。

 楽器そのものの違いもさることながら、チャン・ユジンの演奏も圧巻だった。
 アンコールでのソロ演奏では、何をどうすればあんな音が出るのか?そして、一体どんな練習をすればあんな演奏ができるようになるのか?ほとんど魔法を見せられているような感覚だった。
 オーケストラのメンバーに知り合いがいるので、終演後に話をしたのだが、チャン・ユジンについては「もう別格だから」ということだった。
 オーケストラに入るだけでも相当な腕前が必要で、並大抵でない研鑽が必要なはずだが、それを経てきている人から見ても(だからこそなのか)別格だということだ。

 私の持論のひとつに、「努力した凡才は努力していない天才に勝てることはあるかもしれないが、努力した天才には絶対に勝つことはできない」というものがある。
 世の中には「努力すれば必ずみんな同じようにできるようになる」だとか「世の中に天才などいない」などという無責任なことをのたまう者が多いが、そういうことは現実をよく見ていれば絶対に言えなくなるはずである。
 「天才と言われる人だって努力したからあんなふうになれたんだ」というようなこともよく聞くが、天才の天才たるゆえんは、凡人が死ぬほど努力してやっと成し遂げられるレベルなど、努力なしに軽く超越したうえで、凡人など考えも及ばぬ別次元の努力の末に、天才と言われるところまで登りつめるところにある。
 凡人では「あんなふうになれ」ることは絶対にない。

 チャン・ユジンは音楽家としては(特に女性では)珍しく生年をプロフィールに載せている。
 それによればまだ年齢は25歳。これからもっと経験を積んで、さらに高みに昇ってゆくことだろう。

 ところで、演奏終了後の「ブラボー!」だが、演奏終了直後に言うのはどうにもこうにもなんともかんとも……
 「ブラボー!」と言う「お約束」になっているから、演奏終了を待ち構えて待ち構えて、「今だ!」とばかりに言っているように私は感じるのだが、考えすぎだろうか。
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# by tima-formosa | 2015-05-25 04:15
 行くつもりはなかったのだが、結局なりゆきで行くことになったホビーショー。
 今年も相変わらず自衛隊の広報がグッズ販売や車両展示をおこなっていた。
 まんじゅうやクッキーなどの食品からアパレルまで、売店の品ぞろえは豊富だ。
 近年急速に強まっている自衛隊無条件賛美の風潮に比例して、年々品ぞろえやスペースが拡大しているのを実感する。
 車両展示の方では、軽装甲機動車などの運転席に、こどもを乗せて記念撮影している親がいる。
 今はまだ訓練で使われているだけなのだろうが、つい先日閣議決定された戦争参加法案が国会で可決されれば、これらの車両は地球上のいろいろな場所で、人殺しの手助けをするために実戦で運用されることになるかもしれないものである。
 去年など、本物の戦車が展示されて、私は「ついに来るところまで来てしまったか」と思ったものだが、やはりこどもを横に立たせたりして記念撮影している親は大勢いた。
 今年の展示車両は輸送用のものだけだったからまだいいが、戦車ともなると、これはもう紛うことなき人殺しのための道具そのものである。
 こどもと戦車が一緒の写真を撮っていた親は、ある意味、原子爆弾の横でこどもにポーズをとらせて撮影するのと同義のことをしていたわけだ。
 こどもはなにもわからないのだろうから仕方ないとして、親の方はそういった行為について、どのように認識をしているのだろうか?

 ほとんど時間がなかったので、サークル参加展示の方は、4列ほどを駆け足で見ただけである。
 今年もまた族車専門サークルが参加していたのを確認し、会場を後にした。
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# by tima-formosa | 2015-05-17 23:46
 DTM講座の無料体験に行ってきた。
 そもそものきっかけは、2年前に買ったまま、面倒くさくなって放っておいたCUBASEとインターフェイスの処遇をどうするか?ということにあった。
 買ってから半年くらい経って、さすがにせっかく高い金出して買ったのに放置状態ではもったいない、やはり少しでも使ってみるべきではないか?と思い立ったのだが、それから1年半、結局なんの進展もないまま現在に至ってしまっている。
 やはり、いまのなにもかもどうでもよくなってしまっている私では、やらなければならない理由を強制的に作らなくては、いつまで経ってもなにも始められないだろうという結論に至った。
 なにかを始めるためには、誰か自分以外の人を介在させるしかないだろうと思ったのである。

 私は、自分自身のことについてはもう本当にどうでもよくて、どうせこのままこの世での存在意義もなく歳を重ねていくだけなのだから、いますぐ死んだところでなんの悔いもないと思っているのだが、他人とのこと、特に約束を守ることに関しては、絶対的に重要視していて、どんな事情があっても、たとえ自分の体調や精神状態が最悪であっても、黙ってすっぽかすことだけは絶対にしないことにしている。
 自分がそれをされたときの耐えがたい悲しみや絶望感がトラウマになっているから、他人には絶対に同じ思いをさせないように、自分のことはさておいても約束を最重要のものとしているのだ。
 DTMについても、習い事として日常の予定に組み込むようにすれば、自分の気分だけで勝手に放り出すようなことは絶対にしないようにするはずだ。

 そういったわけで、まずは無料体験に出かけてみたのだが、講師が女性だったのが意外だった。
 女性でも打ち込みをしている人はいるだろうが、プロで名の知れたような人はほぼ男性ばかりという世界なので、女性に特に偏見を持っているわけではない私の目から見ても意外である。
 そしてあれこれ話を聞いていると、どうも私とそれほど年齢が違わないようでもある。
 私がもっとも打ち込みを熱心にやっていた当時の機材の固有名詞を出しても、話が通じるのである。
 もちろんその当時の機材の限界による苦労話も同じように通じる。
 これは気が楽だ。

 講座には通うことにした。
 受講料は結構高いが、資産の有効活用と引きこもり防止にもなることを考えれば、それほど痛いわけではない。
 私の場合、結果的に外界とのつながりを金で買っているように見える感は否めないが(あくまで結果的にそうなっているように見えるだけの話だが)、そうでもしなければつながりなど皆無なのだから、そのように見えたとしても仕方がない。
 同じ金で外界とつながるにしても、風俗に通って嬢に入れ込んですっからかんになるような事態よりは、はるかにマシというものだろう。
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# by tima-formosa | 2015-04-26 20:31
 去年の年末に金沢を旅した。
 旅した、などというと聞こえはいいが、市内のベタベタな観光地を数か所見て回っただけである。
 二日間の実時間で10時間程度の観光だったが、食事と金沢城の五十間長屋を除けば、おおむね満足できる旅だった。

 この旅をするにあたって、事前にいろいろと金沢について調べていたのだが、その中で、香林坊というところが金沢市の繁華街の中心地で、非常に栄えているとの情報を得ていた。
 そのため、夜の食事のことも考えて宿も香林坊に取り、それなりの心積もりで現地に行ってみたら、「え、これで!?」と思ってしまうような、「それほどでもない」街の様子に肩すかしを喰らったような感想を持った。
 他の街と比較をするというのは野暮なことなので、本当はやりたくないのだが、説明をわかりやすくするために行ったことのある街で例を挙げてみると、観光ガイドなどで特に取り上げられることもない茨城県水戸市の繁華街とどっこいどっこいという感じだった。
 日本を代表する観光都市の金沢ということで、流れでその中心繁華街もガイドで紹介されることが多いのだろうが、紹介するともなると、それなりのことを書かなければならないのだろう。
 日頃は地元の人が見向きもしないような場所が、ガイドブックでは大層な「観光施設」として扱われているという例がよくあるが、その変形のようなものなのかもしれない。
 といっても、金沢が特別に「それほどでもない」街なのではなくて、日本全国を見回してみれば、平均よりは明らかに「栄えている」のである。
 ただ、ガイドブックなどでの書かれ方によって、あまりにも高い下駄を履かされているので、どうにもこうにも東京や名古屋などの、本来は特殊な例であるはずの巨大都市の「栄えている」様子を無意識に想い描いてしまっていて、実際に行ったときに想像とのギャップに戸惑うことになってしまうのである。

 香林坊のことはさておき、周遊バスの車窓から見た金沢の町並みは、あえて古い町並みを残しているわけではなさそうなところでも、どことなく落ち着いた風情を感じさせた。
 松原健之の「金沢望郷歌」冒頭、「桜橋から大橋見れば」を体験してみたくて、寺町回りのバスに乗ってみたのだが、桜坂を下るところで眼下に広がる金沢の背の低い町並みに、なにかグッとくるものを感じた。「ああ、いま私は旅をしているのだ」とあらためて思った。

 食べ物については、あまりいい印象がない。
 泊まったのが日曜日の夜だったということもあって、休んでいる店が多く、目ぼしい店には満席で入れなかった。
 さんざん歩き回って入った場末の店は、せっかくのノドグロを焼きすぎですっかり脂を落とし切ってバサバサにして出してくるなど、脂信者ではない私でさえどういうつもりだと言いたくなるようなところだった。
 口直しで入った寿司屋は、立派な店構えだがメニューがなくてケースの中も見えず、仕方ないのでお任せで頼んだら、どこでも食べられるようなありふれたネタばかりで出してきた。
 いい印象がないと書いたが、帰り間際に駅近くで入った回転寿司は、地物のネタも豊富で職人が手で握っており、食感も味も素晴らしかった。
 金沢で寿司を食べるなら、一般店よりも回転寿司の方がハズレを引く心配がなくていいのかもしれない。
 もっとも、値段は一般店とさほど変わらない。
 大手の100円均一店にしか行かず、値段でしか価値判断しないような吝嗇家は入ってはならない。
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 金沢はゆっくり歩いてみたいというような場所が多いが、そのわりに金沢駅を除けば、兼六園以外には荷物を預けられる場所がない。
 兼六園前の坂道では、建ち並ぶ土産物屋から「200円で預かるよ」などと店ごとに声をかけられて閉口させられたが、他の観光エリアにはコインロッカーも荷物預かりの客引きもないだけに、まだマシだ。
 ひがし茶屋街には案内所があるが、ボランティアと思しきガイドがいるだけで、荷物を預かってくれるサービスはない。
 午前中に金沢駅に着いたとすると、まず駅で荷物を預けて、市内を見て回って、また町はずれの駅に戻って、それから宿に向かって…ということにせざるをえないだろう。
 先に宿に荷物を預けるという手もあるが、それにしたって、荷物を預けるだけのために一度宿まで行って出直さなければならない。
 観光都市としては、少々不便なように感じる。

 ところで前述「金沢望郷歌」に「春の風吹く香林坊に小松砂丘の言葉が残る」という一節がある。
 実は、この歌詞の意味がまったくわからなかった。
 たしか金沢あたりの海岸線は砂丘になっていたはずで、近隣には砂浜を車で走れる道もある、というくらいの中途半端な知識はあったので、小松市にも砂丘があって、それにゆかりのあるナニモノかが香林坊に残っている?などという、わけのわからないことを考えていた。
 「小松砂丘」が人名であり、金沢では有名な画家にして文人であり、その歌碑が香林坊に建っているということを知ったのは、金沢から帰ってずいぶん経ってからのことである。
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# by tima-formosa | 2015-03-07 09:42
 前回からわずか一週間の間隔でピアノ教室である。
 私としては異例といえる頻度だ。
 これは、この日に別件で街に出る用事があるので、ついでにピアノ教室にも行ってしまおうという魂胆の結果であって、断じて練習した成果を早くみてもらいたいという殊勝な心がけのためではない。

 私は極度の上がり症なので、人前でピアノを弾くことが大変苦手である。
 過去に2回だけ発表会に出たことがあるが、2度とも途中で止まってしまって、惨憺たる有様で終わった。
 それ以来、人前でピアノを弾いてみようなどとは思わなくなったが、それをどうしても避けられない状況というのがたったひとつだけ存在しており、それがこのピアノ教室である。
 長年お世話になっている先生の前でさえ、ガチガチに緊張するのである。
 前回も言及したように、私の先生は非常に優しく、厳しいことなど一切言わない。
 「間違ったってつっかえたって全然構わないよ、死ぬわけじゃないんだから」
 ということまで言ってくれる人である。
 そんな人の前でさえガチガチになってしまうのだから、これはもうひとえに私の性質の問題である。
 そういう私であるから、自宅練習では普通に弾けるところでも、先生を前にした途端、つっかえつっかえしか弾けなくなって、弾き終わるころには精神的に疲労困憊しているという体たらくで、今回ももちろん同じだった。
 それでも前回よりは良くなっているというお言葉をいただいた。
 もし私が自宅で練習しているときの演奏を先生が聴いたらどう思うだろうか。
 音だけ聴いたなら、同じ人間が弾いているとは信じられないと思うかもしれない。
 もちろん、自宅での私が上手く弾けているということではなく、教室での私があまりにもひどすぎるというだけの話だが。

 ピアノ教室を辞して、ピアノラウンジへ向かう。今夜はそこで知り合いのライブがある。
 前回記事のピアノバーとは違う店で、こちらはテーブルチャージだけでも5000円、それにアルコール類はボトルのみでどれも1万円以上、ソフトドリンクは1杯1000円という高級店(当社比)である。
 普段なら私のような庶民がおいそれと足を踏み入れることなどできない店だが、ライブの日にはライブチャージが設定されて、多少は安く入店できる。それでも結構な金額ではあるのだが。

 金額が金額なので、いつもはあまり客が入らないのだが、今回は満員の盛況だった。
 リーダーはいつにもまして緊張しており、MCはカミカミである。
 それでも演奏が破綻するということは一切なく、いつもどおりアマチュアとしては相当レベルの高い演奏を披露してくれる。私の体たらくとはえらい違いである。

 ライブが終わり、顔なじみの客やメンバーと話をしたりする。といっても、私は人と話すのが苦手なので、人が話しているのを横で聞いているくらいのものだが。
 メンバーの中で、厳密にいえばひとりだけ(厳密でなければふたり)プロのミュージシャンがいる。
 その人から、演奏に際して毎回細かいアプローチ変更を試しているだとか、楽譜を受け取ったときの裏話などを聞くことができた。
 こういうプロならではの話を聞ける機会というのはなかなか貴重で、これだけでもライブに来る価値はあるように私などは思う。
 また、ピアノを習っている人が多く(リーダーが兼業しているピアノ講師の生徒)、それぞれの練習の苦労話なども聞くことができる。
 私など、みんなが苦労していることの以前の問題(対人問題)で苦労しているわけで、まるでレベルが違うわけだが、それでもそういう話が聞けるのは貴重な財産にはなる。

 帰り際に、とある男性客から名刺をもらった。まったく面識がない人なので、なんでまたと思っていたら県議会議員だということだった。
 私は彼に投票できる地区の住民ではないし、そもそも私が絶対に投票することのない、保守本流からいまや極右政党になり果ててしまった党に所属している人なので、名刺をもらっても即ゴミ箱行き、これっぽっちも効果などないわけだが、それでも名前を売ることが商売である以上、絨毯爆撃のごとく誰彼構わず名刺を配らなければならないのだろう。
 大変な仕事だとは思うが、好きで選んだ道なのだろうから、気が済むようにやればいいだろう。
 もちろん、我々が被らなくても済むはずの迷惑をかけてくることのないように、という条件つきだが。
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# by tima-formosa | 2015-02-22 10:20
 久しぶりのピアノ教室である。
 毎度のことながら、ろくに練習していないので、先生も内心はらわたが煮えくりかえっていることだろう。
 それでもまったく怒るそぶりも見せない先生には、申し訳ない気持ちもあるが、やはりありがたいと感じる。
 私がピアノ教室に通っているのは、ほぼ100%引きこもり対策である。
 休みともなれば一日中でも寝ていることがある私である。
 なにか無理やりにでも出かけなければならない理由を作らなければと考えた結果がピアノ教室であった。
 それなのに、厳しいことを言うような先生だったら、重い腰を上げようと思う気持ちすら挫かれてしまうことだろう。
 そもそもピアノでプロになろうと考えているわけではないのだから、うるさいことは言われたくないのである。
 そういう私にとってはうってつけの先生であるといえる。
 先生にとっては迷惑かもしれないが、これからもよろしくお願い申し上げたい。

 ピアノ教室のあとは散髪の予定だが、予約時間まで間があるので、書店で文庫本など3冊ほど購入し、小腹がすいたので寿司屋で5貫だけ寿司を食べた。
 そして散髪が終わってから遅めの夕食にスパゲッティの専門店へ入った。
 カウンター席があるのに、なぜか4人用のテーブル席に通される。そして、その席は異常にタバコ臭い。すぐ隣の席の女性ふたり組がタバコを喫っているのである。
 この店は昼の混雑時を除けば禁煙ではないので、よく見るヒステリックな嫌煙者のように、タバコを喫うことについて文句や苦情を言うつもりは毛頭ない。
 しかし、そのタバコを喫っている女性ふたりは、まだ20代前半と見受けられる。
 喫煙者にとっては肩身の狭い思いをすることが多いであろうこのご時世に、あえてタバコを喫う道を選んだということは、よほどの信念があったものと思うのだが、いかがか。

 最後に、ほぼ1年ぶりとなる某ピアノバーに入った。
 ここではマスターと日替わりのピアニストが、生演奏を聴かせてくれる。
 ただしピアノは本物のグランドピアノではなく、ハンマーアクションデジタルピアノである。
 実はこの店に入ったのは今回で3回目である。
 しかし、毎回初入店として対応される。つまり、顔を覚えられていないということだ。
 今回は特に前回から間が開いているということもあって、覚えられていないのは予想通りだったのだが、まあしかし、いちいち前に来たことがあるだの説明するのも面倒なので、黙ってカウンターに座った。
 覚えられないというのは、来店間隔の問題以外に、私がマスターらとほとんど話をしないということも原因のひとつだろう。
 人と話をするのは苦手だし、私はピアノを聴くのが主な目的で来ている。
 必要性も感じないので、名乗ったりもしない。

 それにしても、どうもこの店は常連客ばかりで、一見の客には少々居づらい感じではある。
 私以外の全員が、マスターやピアニストの伴奏で歌を歌ったり、サックスやチェロの演奏などしたりする。
 メニュー表もないし、これでは「ここに集うみんなと仲良くなろう」という目的を持つ人でなければ、常連になるのは難しい環境ではないだろうか。
 私のように、ピアノを聴きに来て、ついでに軽くなにか飲んで……という、コミュニケーションを求めない者には向いていないのかもしれない。
 そろそろ帰ろうかと思っていたところに、さきほどサックスを吹いていた人に話しかけられた。
 「めっちゃ聴いてる人がいる、って思って緊張した」のだそうだ。
 そりゃあピアノ聴きに来てるんだからなあ、と思うのだが、そこは適当に流した。
 「ひとりでこんなところに来て飲んでるなんてカッコイイっすね」みたいなことも言われた。
 べつにカッコイイだとか意識したことはないし、一緒に行くような相手がいないだけだし、この先ずっとひとりで生きていくのに、いちいちひとりであることを気にしなければならないのは不便だから、どこにでもひとりで行くようにしているだけのことである。
 まあそんなことを説明しても仕方ないので、これもやはり適当にあしらって店を出た。
 次に来ることがあっても、やはりまた初顔として扱われるんだろう。
 それもまた面白いかもしれない。
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# by tima-formosa | 2015-02-15 23:33
 インフルエンザで療養中である。
 すでに療養後期で、明日から職場復帰する予定だ。
 つまり、日常生活にそれほどの支障はない。
 そんな状態でも、とりあえずは横になって安静にしているのだが、そうすると暇をもてあますということになる。
 そんなときにはついつい本棚に手を伸ばして、日頃あまり読まなくなったマンガなど手にとってみたりするのだが、そうして読んでみた『美味しんぼ』が実に面白い。

 いや、面白いというと語弊があるだろう。というより何かが違う。
 『美味しんぼ』は、(絵のことはひとまず措いておくとして)ストーリー構成や展開など、普通にマンガの「面白さ」を評価する際の基準からいえば、面白いとは決していえない。

 主人公の山岡に関わる人々(以下「山岡ら」)の前に、絵に描いたような敵役が現れ、四角四面な主張で山岡らに自分たちの言い分のどこが間違っているのか証明しろと迫る。
 それに対して山岡が「料理で説明する」といって、わざわざ料理を作って食べさせたうえで、その料理に込められた意味を言葉でも説明する(料理、いらないじゃん…)。
 すると、あれほど強情で頑なで喧嘩腰だった敵役が、コロッと180度態度を豹変させて、いや私が悪かったと「心を入れ替える」のだ。
 で、つまらないオチをつけておしまい。
 基本的にはこの繰り返しで、それにシリーズ編として、至高のメニューとの対決だの世界味めぐりだのというのが定期的に差し挟まれるわけだが、それだって結局は料理とその作り方の説明が延々と続くだけだ。*1

 そういったわけで、標準的なマンガの評価方法では決して面白いといえるような作品ではない『美味しんぼ』だが、私にとっては「面白い」のだ。
 そう、違いはこの、面白いと「面白い」、カッコ付きかどうかの違いにある。

 世間の評価として、『美味しんぼ』がどう見られているのか、詳しいことはよくわからないのだが、どうも昨今ではネット右翼によって原作者の雁屋哲氏が「反日」だと叩かれることが多いようで、『美味しんぼ』という作品=雁屋氏そのものという構図で受け取られているようにも見受けられる。
 そしてその構図自体は、ほぼ事実といっていいだろう。
 ネット右翼的な「親日」は、冷静に客観的に国際的に見れば逆に反日(結果的に日本に害悪を及ぼすという意味)であることがほとんどであって、反日が「反日」を叩いているわけだから滑稽極まりないが、そういったイデオロギー的なことを抜きにして考えても、確かに雁屋氏の(というより山岡に仮託した雁屋氏の)主張とか言動だとか価値観などは、ちょっと独特というか、なにか世間から少々ズレた感じがするのは確かだ。
 そういった雁屋氏の「ズレ」が大きな形で表出した部分の『美味しんぼ』が、実に「面白い」のである。
 そして、雁屋氏だけではなく、作画の花咲アキラ氏の描く登場人物も、時に爆笑ものの「面白さ」を生み出している。

 花咲氏といえば、個人的に忘れられないエピソードがある。
 かつて連載誌であるスピリッツの最後、連載陣たちがひとこと書くページにおいて
 「最近は“癒し系”など“○○系”という言葉が流行っていますが、あなたは“何系”ですか?」
 という感じのお題が出されたことがあった。
 当時スピリッツに連載を持っていた喜国雅彦氏は「仮性包系。」という、さすがというからしいというか、ともかく絶妙な回答をしていたのに対して、花咲氏の回答は大意、次のようなものであった。

 「そんなの何系だろうとどうでもいいじゃないか。ほっと系」

 ……書いていて私が恥ずかしくなってしまったが、どうやら花咲氏は、これが面白い、ギャグとして通用する、と思って書いたようだ。
 このコメントを読んで、私は合点がいったのだ。
 あの原作者にしてこの作画者あり、どっちもズレているからこそ、あの「面白さ」が実現しているのだと。

 長々と文章で説明してしまったが、実際に作品を見てもらった方が話は早い。
 と、我ながら身も蓋もないことを言ってしまったが、第12巻「玄米VS白米(前後編)」より抜粋。

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 最初にレギュラーキャラ以外の登場人物だけ紹介するが、ご飯を無心している3人組は武育女子大学柔道部の部員である。
 こんなことになっているいきさつは、厳しい部活の合宿が続いているにもかかわらず、出される食事(玄米食)がまずくてとても食べられず、空腹に耐えかねた3人は、山岡たちが泊まりに来ている近所の民宿にご飯(白米食)の無心に抜け出してきた、というわけである。
 いくら腹減ったからって、いまどき女子大生が夜中に他所様のところにやってきてご飯を無心するかよ!(笑)
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 続いて、先ほどの3人を連れ戻そうと、怖い怖い先輩たちが宿の人の制止も聞かずに足を踏みならしながら不法侵入!(笑)*2
 しかも、この絵に描いたような悪役顔ときたら!
 その後、ひと悶着ありつつ舞台は東京に戻るのだが、ある日突然東西新聞社にやってきた怖い怖い先輩たちに、勤務時間中にもかかわらず山岡が拉致される!上司の富井や谷村は止めるどころか姿も現さない。もうメチャクチャだ。
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 拉致された山岡の前に現れたのは、武育女子大柔道部部長。
 柔道着ですらないが、どうやら武術ならなんでも嗜む家系の出らしいので、もういいから放っておこう。
 山岡は柔道部の玄米を検査して、どこが悪いのか説明することを約束して解放される。
 数日後、検査結果を見るために別の大学を訪れた山岡たちと柔道部員たち。しかし……
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 こいつら、どこへ行くにも武道着と芋ジャージ(笑)*3
 そして初対面の専門家に対して指さしながらひどい言いがかりをつける部長!無礼にもほどがある(笑)
 ちなみに山岡を拉致するために東西新聞社を訪れたときにも部員たちは芋ジャージ姿だった。
 東西新聞社の所在地は東京のど真ん中(古い言い方だ)、銀座周辺である。芋ジャージで電車に乗って銀座へ……(笑)
 その後、安全な有機肥料とは?ということを説明するために、どこか知らんが郊外の牧場へお得意のワープ(笑)
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 もちろんどこへ行こうとも彼女たちは武道着と芋ジャージのままだ。

 さて、どうだっただろうか?
 他にも、画像は紹介しなかったが、柔道部部長が日本刀を持ちだしてくるなど、銃刀法違反の描写もあったりした。
 もちろん笑いのツボは個人によって異なるので、誰もが私のような『美味しんぼ』の楽しみ方ができるとは限らない。
 ネット右翼な人にとっては、「反日な奴の本など手にしたくもない」と思う人もいるかもしれない。
 そういう人は無理に読む必要もないが、ともかく、ほかにも「山岡、世界中に知り合い多すぎ!」とか「海原雄山、不自然に地位高すぎ!」とか「なんで富井はクビにならないの?」など、ツッコミどころは多々あり、それによる世間の感覚とのズレは散見される。
 それぞれの楽しみ方を探していただけたらと思う。

 *1:私が単行本を所有しているのは、40巻あたりまでの、まだ海原雄山から尖った部分が消えきってしまう前までのうち、「面白い」と思うところがある数冊のみである。それ以降のストーリー展開については私の知るところではない。
 *2:最初の3人はお勝手口のドアをノックして合法的に入れてもらっている。
 *3:部長は学生ではなく大学で栄養学の助手をしているそうだが、学生だろうが教職だろうがおかしいことには変わりない。むしろジャージより武道着であちこち出歩く方がおかしい。
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# by tima-formosa | 2015-01-20 15:19

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