「ノーベル文学賞受賞を逃す」の怪
「村上春樹がノーベル文学賞受賞をまた逃した」という「ニュース」が、今年もまた瞬間的に沸き立って、瞬時に消え去っていった。
私は一度も彼の作品を読んだことはないし、それどころか彼の作品のあらすじさえ1作も知らないので、彼の作品の中身について論じることはできないが、世界でもっとも有名な日本人作家のひとりであり、その著作の評価も高く、「世間では受賞が有力視されている」という客観的状況が事実であることは認めないわけにはいかない。
ただ、私が認めるのはあくまでも「世間でどのように言われているか」という客観的状況についてのみであって、その状況が、厳然たる事実に裏付けられたものであるかどうかは、また別の話になってくる。
どういうことかというと、これだけ毎年「受賞が有力視され」ていながら、いつまでたっても受賞がならないとなると、そもそも文学賞の候補者としてノミネートされていることから疑わなければならないということだ。
考えてみれば、有名な直木三十五賞の場合は、候補作品が事前に公表されていて、確実にその中から選定されている。
ところが、ノーベル文学賞の場合、「○○さんがノミネートされました」という話をいままで聞いたことがない。
普通に考えて、誰かがなにかの賞を受賞する可能性を論じる場合、まずは候補者としてノミネートされていなければ話にならないはずで、それはもっとも大事なことのはずなのだが、世間での前評判は、あくまでも風評にのみ依って立っていなかったか?ということだ。
そう思っていたところ、やはりというかなんというか、そのあたりの事実がネットニュースを読んで明らかになった。
ノーベル文学賞の候補者というのは、その年の受賞者発表から50年後にならないと公表されないのだそうだ。
つまり、今年も去年もおととしもさらにその前の年もさらにその(以下略)村上春樹がノーベル文学賞候補としてノミネートされていたのかどうかは、選定している人以外は50年待たなければ知ることができないということだ。
どこの誰がノミネートされているのかすらわからないのに、ファンはともかく、どこかの自称「事情通」を含めた多くの人々が、勝手に受賞するかもしれないと空騒ぎしていたということになる。
村上春樹はノミネートすらされていなかったが、代わりに(?)あの百田尚樹がノミネートされていた!などというトンデモな事実が明かされるという可能性もないことはないことはないのかもしれないが(いや、絶対にありえないが)、ともかくすべては50年経たなければわからないのだ。
これではとんだ笑い話ではないか。
50年後といえば、私は確実に死んでいるだろう(というか死んでいたい。こんな世の中に長生きなどしたくない)。だから、私は一生かかっても村上春樹がノミネートされていたかどうかさえ知ることができないというわけである。
あるもののファンが、その信奉する対象にハマってしまったばかりに見境なく突っ走ってしまうということは、ままあることだ。
それについては、無関係の者に実害を及ぼさない限りにおいて構わないと思うのだが、そういった「暴走」を、根拠も薄弱なのにニュースとして一般に広めてしまう風潮というのは、そもそもどうなのか?と思う。
世の中には、とても大事なことなのに、意図的に取捨されて報道されないことがたくさんある。
その一方で、騒ぐ必要も根拠もない「ニュース」が流されて、それが「ニュースで見たから」という理由にならない理由によって、批評眼のない多数の人々に重要なことであるとして受け止められてしまう。
この国の病理の根源のもっとも重大なもののひとつだろう。
ところで、村上春樹の作品は面白いのだろうか?
とりあえず、話題ばかりが先行している時点で内容にまでは興味を惹かれないし、ほかに読みたい作品がいくらでもあるので、手に取ることもしていないのだが。
いまのままだと、もし読むことになるとしても、優先順位からいって後回しも後回し、それこそ50年くらい経たないと読むことはないのかもしれない。
そのとき私はすでに死んでいるわけだが。
私は一度も彼の作品を読んだことはないし、それどころか彼の作品のあらすじさえ1作も知らないので、彼の作品の中身について論じることはできないが、世界でもっとも有名な日本人作家のひとりであり、その著作の評価も高く、「世間では受賞が有力視されている」という客観的状況が事実であることは認めないわけにはいかない。
ただ、私が認めるのはあくまでも「世間でどのように言われているか」という客観的状況についてのみであって、その状況が、厳然たる事実に裏付けられたものであるかどうかは、また別の話になってくる。
どういうことかというと、これだけ毎年「受賞が有力視され」ていながら、いつまでたっても受賞がならないとなると、そもそも文学賞の候補者としてノミネートされていることから疑わなければならないということだ。
考えてみれば、有名な直木三十五賞の場合は、候補作品が事前に公表されていて、確実にその中から選定されている。
ところが、ノーベル文学賞の場合、「○○さんがノミネートされました」という話をいままで聞いたことがない。
普通に考えて、誰かがなにかの賞を受賞する可能性を論じる場合、まずは候補者としてノミネートされていなければ話にならないはずで、それはもっとも大事なことのはずなのだが、世間での前評判は、あくまでも風評にのみ依って立っていなかったか?ということだ。
そう思っていたところ、やはりというかなんというか、そのあたりの事実がネットニュースを読んで明らかになった。
ノーベル文学賞の候補者というのは、その年の受賞者発表から50年後にならないと公表されないのだそうだ。
つまり、今年も去年もおととしもさらにその前の年もさらにその(以下略)村上春樹がノーベル文学賞候補としてノミネートされていたのかどうかは、選定している人以外は50年待たなければ知ることができないということだ。
どこの誰がノミネートされているのかすらわからないのに、ファンはともかく、どこかの自称「事情通」を含めた多くの人々が、勝手に受賞するかもしれないと空騒ぎしていたということになる。
村上春樹はノミネートすらされていなかったが、代わりに(?)あの百田尚樹がノミネートされていた!などというトンデモな事実が明かされるという可能性もないことはないことはないのかもしれないが(いや、絶対にありえないが)、ともかくすべては50年経たなければわからないのだ。
これではとんだ笑い話ではないか。
50年後といえば、私は確実に死んでいるだろう(というか死んでいたい。こんな世の中に長生きなどしたくない)。だから、私は一生かかっても村上春樹がノミネートされていたかどうかさえ知ることができないというわけである。
あるもののファンが、その信奉する対象にハマってしまったばかりに見境なく突っ走ってしまうということは、ままあることだ。
それについては、無関係の者に実害を及ぼさない限りにおいて構わないと思うのだが、そういった「暴走」を、根拠も薄弱なのにニュースとして一般に広めてしまう風潮というのは、そもそもどうなのか?と思う。
世の中には、とても大事なことなのに、意図的に取捨されて報道されないことがたくさんある。
その一方で、騒ぐ必要も根拠もない「ニュース」が流されて、それが「ニュースで見たから」という理由にならない理由によって、批評眼のない多数の人々に重要なことであるとして受け止められてしまう。
この国の病理の根源のもっとも重大なもののひとつだろう。
ところで、村上春樹の作品は面白いのだろうか?
とりあえず、話題ばかりが先行している時点で内容にまでは興味を惹かれないし、ほかに読みたい作品がいくらでもあるので、手に取ることもしていないのだが。
いまのままだと、もし読むことになるとしても、優先順位からいって後回しも後回し、それこそ50年くらい経たないと読むことはないのかもしれない。
そのとき私はすでに死んでいるわけだが。
by tima-formosa
| 2015-10-10 07:46